旧国鉄川俣線(福島県)

◆2014年2月8日(土)、9月13日(土)撮影
前回訪問時の2014年2月8日は大雪のため満足な写真撮影が行えなかったので、9月13日に再度調査を実施し、前回訪問時との写真比較を試みました。
※旧バージョン(暫定版)はこちら

国土地理院発行地形図5万分の1地形図(二本松)(H4.3.1発行)+(川俣)(H4.3.1発行)+保原(H7.9.1発行)を引用

国土地理院発行地形図5万分の1地形図(二本松)(S44.1.30発行)+(川俣)(S44.4.30発行)+保原(S32.6.30発行)を引用
 川俣線(かわまたせん)は、かつて福島県福島市の松川駅から同県伊達郡川俣町の岩代川俣駅までを結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線である。

 沿線の飯野町と川俣町は絹織物の産地として知られ、また川俣町の水晶山からは希元素鉱物のペグマタイト(巨晶花崗岩)が産出された。これらの産品を輸送する路線として期待されたが、長年の陳情にもかかわらず鉄道建設は遅れ、1926(大正15)年にようやく開通した。ちなみに当時は川俣町には信逹軌道によって川俣〜掛田〜保原〜伊達へ通ずるルートがあったが、不採算路線として1927(昭和2)年6月28日に掛田〜川俣間が廃止されている。

 計画では、改正鉄道敷設法別表第28項により「福島縣川俣ヨリ浪江ニ至ル鐵道」として当路線の浜通り方面への延長も計画されていたが、急峻な阿武隈高地に行く手を阻まれ計画は頓挫し、盲腸線のままとなった。代替として1928(昭和3)年に鉄道省による省営バスが福島〜川俣〜浪江間に開通した。しかし皮肉にもこのバス路線によって、松川乗り換えの手間が省略されたことにより、鉄道利用客は伸び悩んでいった。さらには戦時下の1943(昭和18)年には不要不急線として一時休止した。

 戦後の1946(昭和21)年には営業再開した。この早い復旧には当時数少ない外貨獲得手段であった絹織物の輸送を優先させたためと思われる。このように一時は持ち直しをした川俣線であったが、1960年代のモータリゼーションの到来により、頼みの貨物輸送はトラック輸送に変わっていった。そして、いわゆる赤字83線廃止の取組みの一環として1972(昭和47)年に廃止され、国鉄バスが代替として運転されていた。しかしその後身であるJRバス東北の路線バスも2005(平成17)年3月31日限りで廃止され、現在は自治体による代替運行が行われている。

国土地理院発行地形図5万分の1地形図(二本松)(H4.3.1発行)+(川俣)(H4.3.1発行)+保原(H7.9.1発行)を引用
@松川駅
2014年2月8日(土)撮影 2014年9月13日(土)撮影

松川駅舎

跨線歩道橋より南側を撮影。左端の線路が川俣線で、隣接するホームには柵が設置されて現在使用されていません

跨線歩道橋より北側を撮影。
右端が旧川俣線の線路。

左写真を望遠で撮影。線路は途中で分岐していて、真ん中の車止めが川俣線で、右端が北芝電機天王原工場敷地内に伸びています。川俣線はこの先緩やかに東(写真では右)にカーブしていました。

北芝電機への引き込み線は草で隠れてしまっています。

松川駅ホーム。現在はフェンスで区切られたこの1番ホームがかつての川俣線の乗り場。
A北芝電機天王原工場付近
※9月撮影では藪に阻まれ写真撮影が出来ませんでしたので一部省略。
2014年2月8日(土)撮影

北芝電機専用線、松川駅方向。現在はあまり使用されず、変圧器などの大型物の輸送に使用される程度だそうです。
川俣線の路線跡は写真右にあります。

北芝電機専用線、終点方向。この先行き止まりになっています。

川俣線の路線跡。非電化路線なのに架線柱があります。どうやら、川俣線廃線後に架線作業練習施設として利用されていたものと思われます。
2014年2月8日(土)撮影 2014年9月13日(土)撮影

この先、一部が道路に転用されています。右に見えるのが専用線。
B
2014年2月8日(土)撮影 2014年9月13日(土)撮影

この先、丁字路となり、いったん路線跡が消失します。
C
2014年2月8日(土)撮影 2014年9月13日(土)撮影

路線跡は、国道4号線の工事造成によって消失したようです。路線跡が再び現れるのがこの国道4号線の川俣側からです。
この上が国道4号線で、このトンネル通路は高さから、廃線後に作られたものと推定されます。使われている形跡がありませんが、土地権利の関係でこのようになったものと思われます。

この先、明らかに路線跡とわかる道となっています。
D
2014年2月8日(土)撮影 2014年9月13日(土)撮影

跨線橋が見えてきました。

現役時代は、この橋の上からいい鉄道写真を撮ることが出来たかもしれないです。

よく見てみると廃レールを利用しているのがわかります。

この先廃線跡が続きます。
E
2014年2月8日(土)撮影 2014年9月13日(土)撮影

ここで道路とぶつかります。路線はこのまま直進していたと思われます。

右側の建物付近が路線跡のようです。

アングルが比較的異なりますが、左側にある平屋根の建物を目印にするとわかりやすいです。
F
2014年2月8日(土)撮影 2014年9月13日(土)撮影

ここから再び路線跡が続きます。現在は作業用道路として利用されていて、軽自動車程度であれば通行が可能のようです。

右側が路線跡で、雪でよく見えませんが、築堤が見えます。
左側が県道51号線。
G
2014年2月8日(土)撮影 2014年9月13日(土)撮影

路線跡はここで舗装道路と合流します。

川俣方向。この先は廃線後にかさ上げを実施して道路を新しく造ったために路線跡が一時不明瞭になります。

道路のかさ上げのために路線跡が不明瞭となりますが、写真右下へと続きます。

この先に川俣線唯一のトンネルがあります。
H下川崎隧道
※9月撮影では藪に阻まれ写真撮影が出来ませんでしたので一部省略。
2014年2月8日(土)撮影 2014年9月13日(土)撮影

川俣線唯一の隧道(トンネル)です。

完全に藪に覆われていました。
2014年2月8日(土)撮影

延長108m
収容人員
歩行時分2分(どうやら徒歩2分の長さという意味らしいです)

廃線から40年ちかくたっていますが、崩れもひび割れもなく予想以上に綺麗でした。

所々黒く見えるのは、蒸気機関車時代の煤の跡でしょうか。

この先は塞がれていましたので、引き返しました。
I
2014年2月8日(土)撮影 2014年9月13日(土)撮影

トンネルの出口は現在埋められて不明瞭ですが、写真右の林の下辺りではないでしょうか。

この先路線跡は続きます。

この先には阿武隈橋梁がありますが、藪のために引き返しました。

国土地理院発行地形図5万分の1地形図(川俣)(H4.3.1発行)+保原(H7.9.1発行)を引用
J阿武隈川橋梁
高さ37m、長さ120mで建設された昭和初期には東北一の高さでした。路線の総工費150万円のうち20万円と1年半の建設工期というお金と時間を要した大工事でした。
2014年2月8日(土)撮影 2014年9月13日(土)撮影

並行して走る県道51号線の逢隈橋より撮影。現役時代にはこの写真の奥に阿武隈川橋梁を見ることができたものと思われます。

現在の逢隈橋は、幅が狭く大型車同士のすれ違いが難しいことから、新しい橋の掛け替え工事が行われていました。

阿武隈橋梁の川俣側から接近してみました。

雪でよく見えませんが、橋台が見えました。

藪に覆われて橋台自体は見えませんでしたが、中央部のへこみ部分が路線跡です。

この先、路線跡は自動車道路に転用されています。
K
2014年2月8日(土)撮影 2014年9月13日(土)撮影

この先、路線跡は続きます。

右に見える石積みは鉄道由来のものでしょうか?

藪のため、右にある石垣か隠れてしまっていますが、そばに寄ってみると合間から石垣を見ることが出来ます。

L
2014年2月8日(土)撮影 2014年9月13日(土)撮影

この区間は車道化が行われずに路線跡が残されて、このような切り通しとなっています。
ちなみに並行して走っている道路は県道307号線です。

見事な切り通しで、今にも列車が走ってきそうな雰囲気です。

切り通しを抜けるとこのようななだらかな区間となります。

撮影場所は若干異なりますが、左写真のようななだらかな区間となります。
M
2014年2月8日(土)撮影 2014年9月13日(土)撮影

交差点。路線は右から左へと続いていて、右側は完全に車道化されています。

松川方面。写真中央から路線跡が合流しています。

川俣方面。路線跡は車道化され、県道307号線となっています。
N岩代飯野駅跡と蒸気機関車
2014年2月8日(土)撮影 2014年9月13日(土)撮影

廃線時、川俣線唯一の途中駅だった岩代飯野駅跡にはかつてはバス停待合室がありましたが、現在は取り壊されて、新たに「いいの交流館」が建てられています。

駅名標風の看板。

かつての駅前広場。前に見える建物が旅館。

駅前広場(西側)
かつてのこの道路がメインストリートで、駅前の雰囲気が残されています。

駅前広場(東側)。写真左の建物は「飯野町公民館」。
C12 60蒸気機関車
この蒸気機関車は、川俣線を走っていたものと「同型」のものです。
ちなみに、川俣線で活躍したC12 66は廃線後に川俣町で静態保存されていたものを1991(平成3)年に真岡市に無償譲渡され、翌年から1993(平成5)年まで復元工事が行われて「現役復帰」し、現在は真岡鐵道の「川俣号」として活躍しています。

機関車の歴史:私は蒸気の力で走る機関車で、川俣線を走った機関車と同型です。名前はC1260で昭和9年3月20日が誕生日です。働いていたところは福知山線・加古川線(兵庫)西舞鶴線(京都)境線(鳥取)伯備線(鳥取、岡山)です。その走った距離は、約144万qで、丁度地球を約35回廻ったことになります。私は27年間の長い勤めを終えて昭和47年5月15日飯野町に落ち着きました。(現地案内板より)
2014年2月8日(土)撮影

蒸気機関車の運転室内にはいることができます。

想像以上に綺麗でした。

案内板。現在では文字も薄れて判別が難しいです。
2014年9月13日(土)撮影
O岩代大久保駅跡
この駅は1941(昭和16)年に廃止されました。
2014年2月8日(土)撮影 2014年9月13日(土)撮影

営業キロからこの地にあったものと推定されます。現在はスーパーマーケットが建っています。

松川方面

川俣方面

駅があった頃はこの道を上がって大久保集落へ歩いていったんでしょうか。

坂を上がると旧道がありました。松川方向を撮影。こちらは路線跡が車道化されて県道39号線となる前に使われていた道路で、駅前の雰囲気が何となく残されています。

反対の川俣方向を撮影。

国土地理院発行地形図5万分の1地形図(川俣)(H4.3.1発行)+保原(H7.9.1発行)を引用
P
岩代飯野駅から路線跡は県道39号線に吸収されてしまい、目立った路線跡はありませんが、ここの国道114号線との合流点手前で廃線跡が分岐し、国道114号線と一時並行します。
2014年2月8日(土)撮影 2014年9月13日(土)撮影

中央から手前に伸びる道路が路線跡で、右へそれるのが県道39号線。

この先国道114号線と一時的に並行します。
Q
この地点で路線跡は国道114号線と合流します。
2014年2月8日(土)撮影 2014年9月13日(土)撮影

合流点、川俣方向を撮影。

合流点、松川方向を撮影。
R
ここで再び国道114号線から分岐します。
2014年2月8日(土)撮影 2014年9月13日(土)撮影

分岐点、川俣方向を撮影。


分岐点、松川方向を撮影。
S岩代川俣駅跡
2014年2月8日(土)撮影 2014年9月13日(土)撮影

駅跡には石碑と「元川俣駅資料館」が建っています。

「元川俣駅資料館」

石碑脇(1)
「開通 大正十五年三月一日 廃止 昭和四十七年五月十三日」と刻まれています。

石碑脇(2)
「平成十年七月建立」と刻まれ、比較的最近に建てられたものだとわかります。

松川方向を撮影。

終点方向を撮影。浜通りの常磐線浪江駅への延長が計画されていましたが、ついにかないませんでした。

駅敷地は、現在は「ふもとがわ団地」と公園になっています。
かつてここには川俣線で活躍したC12 66号蒸気機関車が静態保存されていました。1991(平成3)年に真岡市に無償譲渡され、翌年から1993(平成5)年まで復元工事が行われて「現役復帰」し、現在は真岡鐵道の「川俣号」として活躍しています。

駅名 駅間
営業
キロ
累計
営業
キロ
所在地 開業年月日
(漢字表記) (よみ)
松川駅 まつかわ - 0.0

福島市 1934(昭和9)年11月6日
(東北本線の駅として)
岩代飯野駅 いわしろいいの 6.3 6.3 伊達郡飯野町 1926(大正15)年3月1日
岩代川俣駅 いわしろかわまた 5.9 12.2 伊達郡川俣町 1926(大正15)年3月1日
1941(昭和16)年まで存在していた岩代大久保駅は松川起点7.2km地点に位置していた。

歴史
1926(大正15)年3月1日松川〜岩代川俣間 (12.2km) を開業。岩代飯野・岩代川俣の各駅を新設。
1934(昭和9)年9月1日ガソリンカー運転開始。
1934(昭和9)年11月1日岩代大久保駅を新設。
1941(昭和16)年8月10日岩代大久保駅を廃止。
1943(昭和18)年9月1日不要不急線として全線 (12.2km) を休止。岩代飯野・岩代川俣の各駅を休止。
1946(昭和21)年4月20日松川〜岩代飯野間 (6.3km) を営業再開。岩代飯野駅の営業を再開。
1946(昭和21)年7月1日岩代飯野〜岩代川俣間 (5.9km) を営業再開。岩代川俣駅の営業を再開。
1972(昭和47)年4月6日廃止を申請。
1972(昭和47)年5月14日全線 (12.2km) を廃止。

Wikipediaより)

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