飯野平城(福島県いわき市)

◆2022年1月29日(土)撮影
 正確な築城者・築城年代(時期)は不明だが、岩城氏(海道平氏)の庶流の白土隆弘(岩城常朝)が築いたという伝承が正しいとすると、14世紀後半ないし15世紀初頭ということになる。

 いずれにせよ、文安4年10月20日(1447年11月28日)付の「刑部大輔昌隆押書」という文書に「大館」が現れるので、築城時期はそれ以前である。自治体資料や観光関係施設などの案内で、1483(文明15)年築城とする説が見うけられるが、大館を岩城氏惣領・当主の居城とした後、あるいは居城とするに際して行われた増改築などを誤伝したものであろう。

 その、岩城氏惣領・当主の居城・本拠地とした時期に関しても諸説ある。

 ひとつは、白土隆弘の孫で嘉吉の内紛を制し岩城一族惣領の地位を得た岩城隆忠のときとするもの。あるいは、その隆忠の孫で浜通り南部の戦国大名と化しつつあった岩城常隆が1483(文明15)に「白土」から当地へ移ったとするもの。隆忠の子・常隆の親に当たる岩城親隆と推定する説もある。

 常隆以降は、代々の岩城氏当主の居城として受け継がれることになるが、関ヶ原の戦い後に岩城氏は改易・所領没収され、かわって1602(慶長7)年に鳥居忠政が10万石で入部し、大館城の新たな城主となった。忠政は徳川幕府の命を受けて、大館城の東に新たに磐城平城を12年かけて築き、完成とともに居城を移した。これに伴い、大館城は廃城となった。
Wikipediaより)

岩城氏(いわきうじ)
 陸奥国(むつのくに)(福島県)磐城(いわき)地方の豪族。桓武平氏(かんむへいし)、常陸大掾(ひたちのだいじょう)平国香(たいらのくにか)の曽孫(そうそん)で、磐城郡に土着して岩城氏を称した則道(のりみち)(隆道)を祖とするものが多いが、「岩城国魂系図(くにたまけいず)」(国魂文書)は高久三郎忠衡(たかくさぶろうただひら)を祖とする。鎌倉時代には郡内の好島荘(よしまのしょう)の地頭として勢力を拡大、南北朝・戦国時代には近隣の伊賀氏らを押さえて戦国大名化し、16世紀なかば重隆(しげたか)のころには、北は楢葉(ならは)郡から南は常陸国(茨城県)の一部に及ぶ領国を形成した。その後佐竹(さたけ)氏の勢力下に入った。1590年(天正18)豊臣秀吉(とよとみひでよし)より磐城12万石を与えられたが、関ヶ原の戦い不参のかどで1602年(慶長7)徳川氏により所領没収。1616年(元和2)大坂の陣参加の功により信濃国(しなののくに)(長野県)川中島(かわなかじま)1万石を与えられ、1623年出羽国(でわのくに)(秋田県)亀田(かめだ)2万石に移り、幕末に至った。
(日本大百科全書(ニッポニカ))より

入口

道路を隔てて右側(南西部)が現在公園と整備されている本丸がありますが、左側(北東部)にも城の領域が広がっていたといわれています。

急な坂を登ります。

突き当たりの墓地を右に曲がります。

さらに登ります。

駐車スペースのあるこのあたりが二の丸と言われています。

二の丸には城の歴史が記された石碑が建っていて、左は湯殿山神社への道となります。

飯野平城跡−大舘−
現当主 岩城隆宜書

 わが郷土は磐城の中央部に位置し、鎌倉時代の初めから好嶋荘に属し、政治・経済の中心地であった。室町時代、磐城地方は豪族たちが互いに力を競い合っていた。そのなかで、岩城隆忠は居城を長友(四倉)から白土(平)に移し、統一支配を目指して長子親隆と共に、一方の雄岩崎氏(島倉城主)を滅ぼした。さらに親隆は北進して楢葉郡(双葉郡南部)を治めた。
 常隆は文明十五年(一四八三)磐城・磐前両郡の郡境にあたるこの地に飯野平城(大舘)を築き居城を白土城から移した。城内には菩提寺として曹洞宗青雲院を、必勝と平和を願って真言宗長命寺を創建した。
 同十七年常隆は常陸国(茨城県)に進攻し、守護佐竹家を服従させて、常陸の北部(北茨城・高萩市・里美村)を領有した。次いで盛隆は永正七年(一五一〇)白河郡の領主白川家を攻略した。ここに岩城氏は陸奥・下野・常陸の三国に強大な勢力図を築き、戦国大名の居城として「飯野平城」はその中心となった。同十一年盛隆、由隆・政隆父子は、陸奥・関東第一の覇者たらんと下野国宇都宮に進攻したが、勝機を逸した。以降、岩城氏は重隆・親隆・常隆・貞隆と続いた。
 岩城氏はまた神仏を崇拝し、古典籍や和歌・連歌などの文芸を好み、猪苗代兼載や雪村等を招き、当地方の文化の振興につとめた。しかし、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いで徳川方に加担しなかったため、岩城氏は同七年五月徳川家康に所領を没収された。同年十一月に旧岩城領を与えられた鳥居忠政は新たに城の北東、物見ヶ岡(平)に居城を築いた。そのため飯野平城(大舘)は廃された。
 寛永二年(一六二五)法印宥浄は旧城郭内に月山寺を開き湯殿山権現を祀った。明治初年の神仏習合廃止によって、社号を湯殿山神社と改めた。
岩城氏は八代・一二〇年にわたりこの地を居城とした。

岩城下総守常隆 永正七年(一五一〇)歿
岩城下総守盛隆 享禄三年(一五三〇)歿
岩城民部大輔由隆 天文十一年(一五四二)歿
岩城修理太夫政隆 天文四年(一五三五)歿
岩城左京太夫重隆 永禄十二年(一五六九)歿
岩城左京太夫親隆 文禄三年(一五九四)歿
岩城左京太夫常隆 天正十八年(一五九〇)歿
岩城忠次郎貞隆 元和六年(一六二〇)歿

平成七年(一九九五)三月吉日
大館城跡「史碑」建設有志一同 撰文 佐藤孝徳  謹書 川島大桂』
(現地碑文より)

城の全景がわかる見取り図はありませんでしたが、放射線モニタリング結果の看板に主郭部分の地形図がありましたので掲載しておきます。

主郭。石碑やおそらく銅像の土台などが点在しています。

あとは、巨石がいくつか置かれていました。

本丸の一番高い居場所に戦没者慰霊碑が建っていて、日清戦争から大東亜戦争までの戦没者を祀っています。

湯殿山神社社殿。
1625(寛永2)年、旧城郭内に湯殿山権現として建立されました。主郭より一段低い平地にあり、おそらく各所に点在している曲輪の一つだったと思われます。

石碑群。

麓にある気になった小道。脇の両側には「念 武運長久」と「祈 國威宜揚」と刻まれています。おそらく戦前のものと思われます。現在は草が生い茂り荒廃が進んでいたため確認は出来ませんでしたが、湯殿山神社へ続く参道なのかも知れません。

磐城平城との位置関係図。

TOP旅の記録城のページ>飯野平城(福島県いわき市)