岩出山城(宮城県大崎市)

2013年10月12日(土)撮影
 岩出山城(いわでやまじょう)は、陸奥国(のち陸前国)玉造郡(現・宮城県大崎市)にあった城(一国一城令ののち要害)。伊達氏以前は「岩手沢城」と呼ばれており、古くは足利氏一門で奥州探題であった大崎氏の家臣氏家氏の居城であった。

 築城時期は、応永年間(1394〜1427)で、大崎氏の重臣である氏家直益が築いたと言われている。1590(天正18)年小田原城攻略後の豊臣秀吉は、奥州仕置を行う。 これにより葛西氏と大崎氏は改易となり、氏家氏も改易となった。旧葛西・大崎領12郡は木村吉清・清久父子の領となるが、検地・刀狩りなどへの不満から一揆が発生する(葛西大崎一揆)。 この一揆への関与を疑われた伊達政宗は秀吉により無罪とされるものの、翌1591(天正19)年に、米沢から一揆で焦土と化した葛西・大崎旧領に懲罰的な移封をされることとなる。 移封に先立ち、当時奥州の検地を行っていた徳川家康は岩手沢城に約40日滞在し、その間に城の縄張りや改修修築を行った後に伊達政宗への引渡しを行ったと言われる。 尚この時に「岩手沢」から「岩出山」へと改められた。 以後仙台城築城までの12年間伊達政宗の居城となる(この時期、伊達政宗は「大崎少将」を名乗った)。ちなみに政宗自身は朝鮮出兵や関ヶ原の合戦等の出陣のために実際は数ヶ月しか滞在しておらず、政宗の不在時は屋代景頼が留守を預かった。

 しかし、岩出山は奥大道の経路から外れ、また城下が手狭で、また関ヶ原合戦の恩賞として刈田郡を与えられたことにより居城が領地の北西に偏ることとなったため不便を来すようになり、1601(慶長5)年より政宗は仙台城を築き、移った。その後、岩出山城は政宗の四男の宗泰を初代とする岩出山伊達氏1万4,640石が居住する要害になり、明治維新までつづいた。
 なお、岩出山城には仙台藩の藩校のひとつである有備館が置かれ、庭園とともに現在史跡に指定されている。有備館の建物は現存する最古の藩校とされる。

 明治維新後の1868(明治元)年、岩出山伊達氏は北海道に移住し、知行は本藩に返上したため岩出山城は廃城となった。その後、城内の建造物はほとんど民間の所有となったが、1876(明治9)年の大火により大部分が焼失した。

 現在、城跡には有備館のほかに曲輪跡の平坦や土塁、空堀が残る。また、城山公園、宮城県岩出山高等学校と大崎市立岩出山小学校として利用されている。城山公園には伊達政宗のコンクリート像(平和像)がある。これはもともと仙台城跡に設置されていた金属製の騎馬像が第二次世界大戦における金属類回収令で失われた後、平服で直立であるこの政宗像が設置されたが、市民には不評であったという。後に初代の騎馬像の鋳型が発見されて、1964(昭和39)年に騎馬像が復元設置されたことにより、この地に移設されたものである。

岩出山全景

本丸より一段低い場所は、SL広場となっていて蒸気機関車が設置されています。

本丸跡
現在は売店と駐車場となっています。

本丸からの眺め。

内門跡(本丸から西ノ腰郭への出入口)

西ノ腰郭に建てられた伊達政宗公立像(コンクリート製)

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