磐城平城(福島県いわき市)

◆2022年2月11日(金)撮影
 1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの結果、それまで飯野平城を居城としていた岩城氏が追放され、1602(慶長7)年に徳川幕府譜代の鳥居忠政が飯野平に転入した。鳥居忠政は、都市名を戦国時代までの「飯野平」から、岩城の「いわ」の字を変更して「磐城平」に改めて磐城平藩を樹立し、飯野八幡宮を現在地である八幡小路に移設し、その飯野八幡宮の跡地に磐城平城の建設を命じた。城は1603(慶長8)年に着工し、12年の歳月を費やして1615(慶長20/元和元)年に梯郭式平城を完成させた。

 天守は造られず、本丸の三層櫓がその代わりとなった。その姿は、「磐城名物三階櫓、竜のお堀に浮いて立つ」と詠われた。また、水戸を徳川頼房の本拠地にさせたのと同じく、磐城平を鳥居忠政の本拠地とさせた主な目的は、仙台を本拠地とする伊達政宗への牽制であった。

 1868(明治元)年の戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟に与した当時の磐城平藩家老・上坂助太夫は、磐城平攻防戦で明治政府軍に敗れ、自ら城を焼き払って逃走した。
Wikipediaより)

 現在は、宅地化が進み、本丸を囲んだ石垣の一部と堀であった丹後沢、中門跡が残るのみである。

現地案内板

現地案内板より城部分を拡大。

いわき駅北口すぐに本丸への入口があります。

数少ない遺構である本丸石垣。
現在は駐車場脇にあります。

この石はいわき市の小川、好間、赤井地区より運んだと言われています。

こちらにも石垣が残されています。

本丸跡地は公園となっていますが、訪問当時はいわき市による公園化整備事業工事のため立入出来ませんでした。

柵越しに撮影。敷地内には戊辰戦争後の1868(慶応4)年に磐城平城が廃城になった跡に建てられた旧仮藩庁の建物が残されています。

現地案内板

本丸跡地の現地案内板

こちらも数少ない遺構である中門櫓跡。

中に入ることは出来ないようです。

最大の遺構である丹後沢。本丸と二の丸、三の丸の間の内堀跡で、現在は公園として整備されています。
築城の時、後沢という大きな沼の流れを堰き止めて内堀化する工事が進められましたが、大雨が降って三度も堰が崩れてしまいました。そこで、菅波村(現在の平菅波)の箱崎丹後という老人が人柱となって完成したといい、そこから「丹後沢」という名が生まれたそうです。

現在、丹後沢の一部は公園として整備されています。

本丸北側。ほとんどが宅地化されていて、遺構は残されていません。

こちらは大手門跡。

こちらは城坂。

築城の際に移された飯野八幡宮。社伝によれば、源頼義が前九年合戦後の1063(康平6)年に京都石清水八幡宮を勧請したと伝えられています。または、源頼朝が1186(文治2)年に好島荘の総社として建立したともいわれています。

社殿。現在のものは1616(元和2)年の建立で国の重要文化財。

磐城平城と飯野八幡宮の位置関係。移転前の飯野平城も近くにあります。

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