金沢城(石川県金沢市)

2014年10月4日(土)撮影
2005年訪問時は時間の都合上、石川門と三の丸広場までしか見ていませんでしたが、今回は一周をぐるりと回り、あちこち見て回りました。近年建物の復元や表示看板などの整備がすすみ、見所がたくさんあります。

金沢城石川門口(重要文化財)(1788(天明8)年再建)。

石川門一の門

石川門二の門

菱櫓(右)、五十間長屋、橋爪門続櫓(左)全景(2001年再建)。手前が三の丸広場。

河北門二の門(2010年復元)。
河北門の内側の門が二の門です。南北の石垣台の上に櫓(長屋)を渡す櫓門(渡櫓)の形式をとっています。
外観は石川門とほぼ同じですが、規模は一回り大きく、幅26.9m×奥行き8.2mです。江戸時代は弓奉行の管理下にあり、弓などの武具が収納されたと推定されます。

河北門二の門内部。

河北門二の門から菱櫓を眺める。

河北門二の門(左)と菱櫓(右)。

河北門二の門裏側

河北門一の門

橋爪門続櫓(中央)と五十間長屋全景(2001年再建)。手前が三の丸広場。

鶴の丸広場から見た菱櫓(右)、五十間長屋、橋爪門続櫓(左)全景。

東ノ丸北面石垣。金沢城の初期の姿を伝える数少ない貴重なもの。

鶴丸倉庫(金沢城土蔵)
1848(嘉永元)年に建て替えられた武具土蔵で、石川門、三十間長屋とともに城内に残る藩政期の数少ない建物の一つ。全国の城郭内土蔵の中でも最大であり、腰の石貼りや窓回りなど意匠的にも優れた遺構として、2008(平成20)年に国の重要文化財に指定された。
明治以降、軍隊の被服倉庫などとして利用・修理されているが、基本構造は創建時のままである。

本丸。現在は木々がうっそうと茂り、所々で発掘調査が行われていました。
古くは金沢御堂があった場所と伝え、1583(天正11)年の賤ヶ岳合戦後、前田利家が入城し、1586(天正14)年頃に天守閣を設けたといわれる。天守閣は1602(慶長7)年に焼失し、代わって三階櫓が建てられた。寛永の大火(1631)までは本丸に御殿が置かれ、金沢城の中心であったが、大火後は二の丸に移った。

戌亥櫓跡。
本丸の北西角、戌亥の方向に当たることから「戌亥櫓」と呼ばれていた。西と北に「出し」という出窓が付いている二層の櫓だった。宝暦の大火(1759)の後、再建されなかった。

戌亥櫓跡からの眺め。
右にあるのが現在復元工事中の橋爪門二の門。

鉄門(くろがねもん)跡。
創建は明かではないが、寛永の大火(1631)年以降、二の丸から本丸に入る正門となった。鉄板を貼った扉がつけられていたことからこの名前が付いたといわれている。渡櫓が乗った重厚な門で、本丸の防御にあたっていた。

三十間長屋。
宝暦の大火(1759)の後、長らく再建されず、1858(安政5)年に再建された長屋。本来は食器類を収めた倉庫であったが、江戸時代後期には武器・弾薬を納めたといわれている。1957(昭和32)年、国の重要文化財に指定された。

三十間長屋の内部。

二の丸(左)と本丸(右)を隔てる空堀。奥に見える橋が極楽橋。極楽橋の名前は金沢御堂の時代から伝わったとする伝承があるが、確かな裏付けはない。

玉泉院丸。明治以降には軍施設建設のため埋めたてられ、近年まで県体育館の敷地となっていたとなっていたが、現在復元工事が行われ、藩政時代の庭園が蘇りつつあります。

旧陸軍第6旅団司令部(1898(明治31)年建築)

土橋門(どばしもん)跡
北の丸と三の丸をつなぐ土橋に面して設けられたことから「土橋門」といわれていた。枡形門に造られており、重厚な櫓門があった。

裏口門跡

水堀

五十間長屋内部。武器や非常用の食料など保存する倉庫として利用されました。

五十間長屋に繋がる櫓からの眺め。

石垣に作られたレンガ造りのトンネル。
明治から昭和にかけて、金沢城には旧陸軍の施設が置かれました。このトンネルは旧陸軍によって明治から大正期に造られた弾薬庫として建設されました。

トンネルの反対側。

二の丸広場と菱櫓。

松坂門跡

数寄屋敷石垣
この付近は、数寄屋といわれ、藩主の側室たちの住まいのあったところです。よく見ると石の表面には石を切り出すときの作業分担などを示す刻印が付けられています。

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