長瀞城(山形県東根市)

◆2015年9月19日(土)撮影
 鎌倉時代建長年間(1249年〜1256年)に西根氏によって築城されたという。時代が変遷すると最上氏の所領となり、4代目当主最上満家が隠居の為に利用した。その後は最上満種や最上満宗の居城になったとも、長瀞左衛門尉が本拠を構えたとも言う。本格的に城郭が整備されるのは最上義光が入城してからである。1622(元和8)年に最上氏が改易されると山形藩の所領となり、鳥居氏、保科氏と城主は変遷する。1671(寛文11)年、保科氏の転封に伴い天領となり、幕府が元締陣屋を設置して直轄した。その後、1798(寛政10)年に米津氏が最大の所領であった武蔵久喜6,400石を移されたことから、久喜陣屋を廃止して、この長瀞に陣屋を構え、長瀞藩12,000石となった。ちなみに長瀞藩の幕末の領地は出羽国(4村)・下総国(6村)・上総国(8村)と点在していた小藩だった。
 その後長瀞藩は戊辰戦争では奥州越列藩同盟に属し、新政府側の天童藩との戦いで陣屋や町を焼失した。版籍奉還の後は藩庁移転の願い出を新政府に行い、上総国山武郡大網村の大網陣屋に藩庁を移し長瀞藩は廃藩となり、跡地は民間に払い下げられた。(ちなみに同藩はさらに常陸国龍ヶ崎村に移って龍ヶ崎藩となり廃藩置県を迎える)

  水堀、土塁を二重に巡らせた方形輪郭式の平城で、かなりの規模を持っていた。通常の城は三の丸までだが、四の丸まであったという。ただし、遺構が残存しておらず、確固たる検証はできない。 また、城跡がはっきりしている。地図を見れば明らかだが、長瀞城は町の大本になっている。特に整備がされていて、貴重な文化財として活用されることが期待される。ただし、復元された部分が多いという事には注意を要する。北西にある禅会寺は最上満家の菩提寺で墓が残り、山門は長瀞城(あるいは陣屋)の移築門とも考えられているがはっきりしない。
(参考サイト:wikipediaなど)

長瀞城跡案内板(現地案内板)
写真右が北。

長瀞城址の石碑。奥に見えるのが二の掘。

大手門跡

陣屋跡
この一画を陣屋といいます。
中世に構築された館の本丸で、一辺が63間(114m)の方形である。
寛永20年(1643)長瀞村は幕府の直轄領となり、寛文2年(1671)ここに幕府代官所がおかれた時もある。
寛政10年(1798)米津通政(よねきつみちまさ)が武州(ぶしゅう)久喜より入部し、長瀞藩一万二千石の居城となる米津氏は無城大名であるため、陣屋と称した。
それから四代目政敏のとき戊辰の戦いに遭い薩長軍の戦火により居城すべて焼失した。
明治以後、民間に払い下げられて現在に至る。周囲を楯の内という。(現地案内板より)

二の掘北東部「楯の掘」

二の掘北東部「楯の掘」

馬洗(うまあらい)川
農機具が、今日のように発達しない頃、農耕を牛馬の力を借りてすることが主で、その牛馬を洗う小川をいう。
流れ水の少ない長瀞では地区内の水を汚さないよう村はずれに川尻で牛馬の汚れを洗い流して家に帰った。
地区内には、ここの外二ヶ所あり、村の南西隅陣場を流れる小川と、北西隅雷(いかずち)地内の小川で、河岸端や(かしばた)や大江堰では洗わなかった。(現地案内板より)

二の掘北西部「下掘(したぼり)」
二の掘で、もっとも下手にある堀で、堀幅も広く、約九間(17m)もあった。
これより左手が中楯、右手が西楯という。西堀は狭いが、先年まで蓮の花が咲いていた。(現地案内板より)

二の掘南西部「西堀」
ここで一部二の掘は埋められて消失します。

二の掘北西部

内小路(うちこじ)
この辺一帯は、曲がりくねった小路で、寄せ手をあざむくための迷路といわれてきた。真宗大谷派光徳寺は、内小路にある。牛房野(ごぼうの)城主鈴木右近が、天文19年佛門に入り開基する。
隣接の天神社(天神様)は鈴木家の氏神で牛房野より移し奉祀したという。(現地案内板より)

光徳寺

二の掘南東部

二の掘東部

一の堀跡
旧長瀞陣屋(本丸)は一町八畝八歩(約188平米)あり、一辺約120mの一の堀が四方を囲む。現在は堀跡幅約1.5m。明治維新まで水路の内側に苗代があり深さは四の堀まであったと言われる堀の中で一番深い堀であった。人馬の丈以上深かったといわれている。
一の堀外側の町内(二の丸)を「楯」と呼び、まさに陣屋(本丸)を守る「楯」の役割をしていた。
長瀞城は水堀と土塁で築かれた方形の平城で、回形にかたどられた戦国時代の陣屋としては大規模な居館に入る。明治維新後に陣屋(本丸)一帯は民間に払い下げられた。(現地案内板より)

三の堀跡

三の堀跡
長瀞城(雁(かりがね)城)は水堀と土塁で作られ、四の丸まであったと言われている方形の平城で回形にかたどられていた。
普通の城跡は三の丸までだが、四の丸は中国の築城をまねたものと言われ、住民の住居や財産をも外敵から守るためだとされている。三の堀は三の丸を囲んで、民家と民家の間の裏地に水路として現在でも残っている。公道から三の堀として確認されるのは、当地を含めて数箇所(大手・横町・中楯他)になってしまった。(現地案内板より)

曹洞宗禅会寺。最上満家の菩提寺。

山門(1)
長瀞陣屋の大手門が移築されたと伝えられている。同じく長源寺山門も大手門の移築と言われていて、どちらが江戸初期の城館のものか、陣屋の門ものかがはっきりしていない。

山門(2)

河岸端(かしばた)
長瀞村に流入する水は、ここの小川と南口の小川のほかない。
この小川の水源はブナ清水で、村内を潤すもっとも大切な小川である。
近くに幣帛(へいはく)(梵天様)があり水神を祀る。(現地案内板より)

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