根城(青森県八戸市)

◆2011年5月15日(土)撮影
 根城は八戸市街地の西端にあり馬淵川南岸の河岸段丘上にある。 本丸・中館・東善寺・岡前舘・沢里館の5つの館(曲輪)が連なる連郭式の平山城である。
 鎌倉時代末期の1333(元弘3)年、北畠顕家は後醍醐天皇より陸奥守に任じられ、義則親王(後の後村上天皇)を奉じて、北条氏の影響が強かった陸奥国府に赴任。この時甲斐国波木井の地頭であった南部師行もこれに従い奥州の地へ入り、師行は顕家より国司の代官(糠部奉行)に任じられ、1334(建武元)年、南朝方の拠点の一つとして石懸村八森に「根城」を築いたといわれている。ちなみに「根城」とは、「陸奥における南朝方の根本になる城」となるようにと名付けられたと言われる。

 以来、この根城を本拠とした南部氏の系統は、「根城南部氏」(または八戸氏)と呼ばれるようになり、南朝側として北朝と戦ったが、次第に南朝側が劣勢となっていき、ついに南北朝が統一された。根城南部氏はこの後今までの本領であった甲斐国を離れ、糠部郡を本領とするようになる。この頃から勢力が衰えるようになり、同族で北朝側についた三戸南部氏が有力となっていく。

 1590(天正18)年、三戸南部氏の南部信直は、天下統一を成した豊臣秀吉から、南部氏領全体の所領安堵の朱印状を得たことによって、信直は領内全体の支配を認められ、根城南部氏はその配下の立場となり、家臣化された。その後根城は1592(天正20)年に豊臣秀吉の一国一城令によって城は取り壊されて機能を失ったが、その後も根城南部氏は根城に住み続けた。その後1627(寛永4)年、根城南部氏22代直秀は利直の命により伊達氏の押さえとして遠野城(岩手県遠野市)に移封となり、根城は放棄された。

 根城南部氏は三戸南部氏を宗家とする南部氏の有力な一族と言われてきたが、近年の研究によって、根城南部氏が宗家の地位にいた時代があった可能性が強まってきている。

 現在、郭・空堀・土塁が残っており、近年では、1941(昭和16)年12月13日に国の史跡に指定され、1983(昭和58)年により11年間にわたって、発掘調査および整備事業が行われた。その後、1994(平成6)年に戦国末期の建物・堀・柵・門の復元工事が行われ、周囲は「史跡根城の広場」として整備された。

根城を築いたと伝えられる南部師行の銅像。

旧八戸城東門
伝承によればもともと根城にあった門を、江戸時代に八戸城に移したと言われる。1857(安政6)年の大風で倒れ、家老職にあった木幡氏に払い下げられて、現在の地に建てられた。

根城敷地内に残る堀跡。

復元された、本丸の建物群。

納屋
地下30cmほど地面を掘って設置され、窓が無く内部は薄暗い。米、味噌、梅漬けなどが入れられていたと考えられる。

主殿
当主が特別な来客と会ったり、さまざまな儀式を行った場所。

主殿内部(1)。

主殿内部(2)
当時の資料をもとに再現された正月11日の儀式の様子。

上馬屋(かみのうまや)
当主が所有している馬を繋いでいたところ。

工房
ここで合戦に備え鎧や弓を修理していた。

野鍛冶場(のかじば)
屋外の鍛冶場で、壊れた鉄鍋や銅銭を溶かして、武器の材料になる延べ棒などを製作していました。

野鍛冶場にある古代の溶鉱炉。

鍛冶工房(かじこうぼう)
ここで刀や弓矢などの武器を製作していた。

鍛冶工房内部。製作の現場が復元展示されています。

板蔵(いたくら)
当主やその家族が使う道具や衣類などが収められていた建物。

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