野駄館(岩手県八幡平市)

◆2020年5月9日(土)撮影
「野駄館」遺跡(推定)
南部藩 参考諸系図
「中野氏本名九戸氏高田、辛、十三系
「文禄元年(西暦一千五百九十三年)三千石中野吉兵衛 後 中野修理」
九戸右京信中九男紋丸ノ内割菱同蔦
直康、又直実・始康実」 初 九戸弥五郎 中 高田吉兵衛 後 中野修理

 中野吉兵衛正康の子吉兵衛元康の譜に「利直公(注 南部二十七代藩主)寛永元年(西暦一千六百二十四年)十二月家督、幼年に依って旧地の内肥爪村、高水寺村に二千石を賜う、同二年四月三日付御黒印あり、同六年(西暦一千六百二十九年)郡山城御普請御用地に依り同郡紫波郡彦部村、赤沢村岩手郡寄木村、北森村(現在の野駄村と思われる)田頭村に替地を賜う同年十一月十日付御黒印有」と記されている。

 中野氏は南部の一門で初代は九戸政実の弟弥五郎康実で天正十四年(西暦一千五百八十六)斯波御所の女婿(高田吉兵衛と称す)であったが、脱走し南部氏がこれを岩手郡の中野城主に起用、これから中野吉兵衛と称するようになった。

 徳川三代将軍家光の代、諸大名の参勤交代が成立すると、南部藩から八戸、中野、北の三家と交代で江戸番に勤務することとなり、後世に至るまで南部藩の御三家に数えられた重臣である。

 この中野氏は文禄、慶長中は志和郡片寄に居城し郡内統治の中堅となっていたが、慶長の末年から郡山城(紫波郡)に移住、郡山城が寛永六年から南部藩の直接の支配地となったため換地替えを命ぜられ、その換地の中に寄木村、北森村を所有することになり、領内管理監督のため寄木、北森を展望できるこの地に常駐ではなかったにしろ、代理の家来を居住させる館屋敷を置いたことにより、後世「野駄館跡」と呼ばれるようになったと思われ、その思いを込めて武家屋敷様式の建物を建てることとしたものである。

平成七年三月
八幡平市
(現地案内板より)

現地案内板

館跡は公園として整備され、駐車場が2ヵ所整備されています。こちらは北側にある第1駐車場。

広い駐車場です。

先ほどの駐車場すぐ近くには公園散策路が整備され、主郭まで行くことが出来ます。ちなみに後述する館東側からも主郭へ続く道が整備されています。

入口には復元された冠木門(かぶきもん)があります。

館西側の自然の地形を利用した散策路が続き、主郭に付随した数段の段築と復元された板塀が見えます。

段築は4段ほどあります。

主郭(1)
現地案内板にもある武家屋敷洋式風の建物が建てられています。

主郭(2)

今回は北側から西側を回って入ってきましたが、反対の東側からも主郭への階段が整備されています。

東側も数段の段築が見られます。

こちらは今回使用した第1駐車場よりも一段高いところにある第2駐車場です。

ふもとの第1駐車場から主郭へは、距離はありますが緩やかな勾配の散策路が整備されています。一方の一段高いところにある第2駐車場は主郭への距離は短いのですが階段を使うので一長一短です。

第2駐車場にある案内図。左が第1駐車場、中央が主郭、右側が第2駐車場。

主郭の南側にある平地。どのように使われていたのかは不明です。

主郭の南側にある段築。

TOP旅の記録城のページ>野駄館(岩手県八幡平市)