三戸城(青森県三戸郡三戸町)

◆2010年11月14日(日)、2011年5月13日(金)撮影
 三戸城は、馬渕川と熊原川に挟まれた標高130mほどの独立台地に展開した山城であり、東西に長い台地を削って平らにしたため、上は意外に平坦地が多く、淡路丸という郭を造成し、城郭内の入口は東の搦手口の鍛冶屋御門の一ヶ所のみであった。

 伝承によれば、1189(文治5)年に源頼朝による奥州藤原氏討伐の功績により陸奥国糠部郡(現在の青森県三戸・上北・下北・岩手県二戸・九戸の各郡に相当)を与えられ、1192(建久2)年に一族を引き連れて甲斐国より、この八戸の地に上陸したといわれる。その後南部氏は、いくつかの分家に分かれたが、次第に三戸を拠点とする三戸南部氏が台頭するようになる。
 その三戸南部氏の拠点である本三戸城(聖寿寺館)が南部晴政の1539(天文8)年に家臣赤沼備中の謀反による放火で焼失。そこで、永禄年間(1558〜70)に、南にある留ヶ崎(とどめがさき)にあらたに新城を築いた。これが三戸城である。

 その後南部信直の時代、豊臣秀吉の奥州仕置きによって、南部氏は、家臣である大浦氏(後の津軽氏)の謀反により、の北方の津軽を失うことになるが、代替えとして南方の和賀・稗貫の二郡の領有が認められ、南部七郡(糠部・岩手・志和・稗貫・和賀・閉伊・鹿角)の領有が安堵された。
このように、南部氏の領土は南方へ移動したことによって、三戸城が領内の北端に偏在することになり、領地経営に支障をきたすようになる。

 いわゆる九戸の乱平定後、南部信直は新たに岩手郡不来方の地に新城(盛岡城)を建設することにした。その間、南部氏の居城は三戸城から九戸城、高水寺城と転々として、1633(寛永10)年の盛岡城完成によって明治時代まで盛岡城が南部氏の居城となる。三戸城は三戸御古城と呼ばれるようになり城代が派遣されて管理補修が行われたが、貞享年間(1684〜88)には廃城となり、城代に代わって代官が置かれ明治維新を迎えることになる。

 現在は城山公園として整備され、1967(昭和42)年に模擬天守が築かれて「温故館」の名で歴史資料館となっている。1989(平成元)年には時の政権による「ふるさと創生事業」により山麓に綱御門が復元された。
2010年11月14日(日)撮影

三戸城遠景

現在は城山公園として整備されていて、頂上まで自動車での乗り入れが出来る。写真はその途中にあった綱御門下部の石垣。現在は、模擬復元された綱御門がここから離れたところにあります。

本丸跡碑。現在はその大部分が駐車場とイベント広場になっている。

資料館として使用されている温故館。三戸城本丸の角櫓を模擬復元したもの。

三戸城跡の案内板。
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心字の庭石
三戸城本丸庭園の庭石で27代利直公第一の遺愛のものと伝えられ、五個の石をもって心字を表しています。
寛永10(1633)年28代重直公が、盛岡移城に際し町内玉岑寺(ぎょくしんじ)に保存されていたものをここに移したものです
(案内板より)

南部藩祖である南部三郎光行(1165?〜1236?)を祀るために1876年(明治9)年に創建された糠部神社

糠部神社本殿

追分石。元々は、町内同心町の奥州街道(盛岡へ続く道)と鹿角街道(田子から秋田県へ続く道)の分かれ道にあったもので、現在の交通標識みたいなもの。そこには「右 かつの 左 もり岡」と記されている。制作年代は不詳であるが、おそらく江戸時代に街道が整備された時に置かれたものと推測される。

1989(平成元)年にふるさと創生事業によって模擬復元された綱御門。実際はここから離れたところにあった。ちなみ「綱御門」とは般若心経を読み、城の安泰を祈願した綱(心経綱)を掲げた門のことであり、三戸城第一の要衝であった。

空堀の跡。

鶴池・亀池。普段は庭園を彩るため、非常時には貯水池として使用された。

搦手口へ降る途中の望岳亭からの眺望(1)

搦手口へ降る途中の望岳亭からの眺望(2)
(左写真の望遠拡大)

鍛冶御門跡。綱御門は表門であり、鍛冶御門は裏門に相当する。

鍛冶御門跡。石垣が崩れている。
番外編

酷道にありそうな味のある標識(笑)

三戸町内にある黄金橋と擬宝珠。
「第十二代南部政行公が京都在留中の春先、市中に鹿の啼き声がしきりに聞こえた事があった。鹿の春の啼き声は不吉とのことで時の帝は大層御心を痛めておられた。政行公はこれを承り
「春霞 秋立つ霧にまぐわねば 思い忘れて 鹿や啼くらん」と詠進申し上げた和歌が計らずも天皇の御意に叶い恩賞として従四位下に叙し、松風硯を賜り朱塗りの弓百張を行列に加えることをお許し戴いた。また、加茂川の橋を模し城下に架けることも特にお許しになった。
政行公は、早速擬宝珠で飾った都風の橋を架けたのが黄金橋の起源と伝えられている。
尚、町立歴史民俗資料館には、県文化財指定の古い擬宝珠が保存されている。」(案内板より)
2011年5月13日(金)撮影
法泉寺山門
三戸城搦手門を移築したとされる。現在は三戸町指定有形文化財に指定される。
龍川寺山門
三戸城の山門の一つを移築したとされる。現在は三戸町指定有形文化財に指定される。

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