新庄城(山形県新庄市)

◆2015年6月20日(土)撮影
 新庄城の築城年は不明ですが、中世、当地の国人領主の館が築かれていたと推定されています。当時は鵜沼城と呼ばれ、天正年間には日野有祐が領有していましたが、1581(天正9)年、最上義光の侵攻により、日野家は服属。関ヶ原の戦いでは、最上義光は東軍側に与したことで、57万石の大大名となり、引き続き所領を安堵された。この頃には城郭を改築し、名称も「新城」と変え、最上48館の一つとして最上氏の居城である山形城の支城に位置づけられる。

 しかし、1622(元和元)年に御家騒動(最上騒動)によって最上氏が改易されると、日野家も連座し、城はいったん廃城となります。同年、常陸国松岡より戸沢政盛が新庄藩6万石(のちに6万8200石)で入府。当初は真室城(鮭延城)に入城したが、手狭であることと、山城のための不便さから幕府に願い出て、1625(寛永2)年、現在の山形県新庄市堀端町に再築城された。なお、縄張は同一時期に山形城に入封した鳥居忠政によるものである。

 新庄城は平城で、本丸の南側に出丸のように小さな二の丸が並列状に配置され、その外側を三の丸が囲む形である。本丸及び二の丸、三の丸の堀の水は城の北を流れる差指野川(さすのかわ)から引かれた。三の丸堀(二の堀)の反対側に当たる現在の堀端町は、家老などが住む侍屋敷があった。築城当初は天守があったが、1636(寛永13)年に、火災によって焼失し、その後再建されなかった。

 1868(慶応4)年の戊辰戦争では戦闘の舞台となった。当初、新庄藩は奥羽越列藩同盟に参加していたが、久保田藩(秋田藩)が新政府側へ変節したのに同調し、奥羽越列同盟から離脱した。これに激怒した庄内藩は新庄藩へと攻め入り、庄内藩兵と新庄藩兵の間で攻城戦が行われたが新庄城は陥落して、その大部分が焼失した。当時の藩主、戸沢正実は久保田藩へ落ち延びた。新庄城は同年のうちに廃城となった。

 現在は、新庄城の建物のほとんどが失われ、本丸と二の丸の一部が最上公園となっている。本丸址に戸澤神社、護国神社、稲荷神社、天満神社(城を創建した戸沢氏の氏神、藩政時代から現存している唯一の建造物)がある。なお、新庄ふるさと歴史センター近くでは三の丸堀跡も確認できる。
参考サイト:wikipedia

本丸跡に整備された最上公園入口で本丸東側入口。
本丸水堀(北東側)

本丸水堀(南西側)

本丸中央に建つ戸澤神社。1894(明治27)年の創建で、戸沢家始祖戸澤衡盛、藩祖の戸澤政盛、11代藩主戸澤正實が祀られている。 また、戊辰戦争に官軍の旗印として与えられた菊花御紋の旗が宝物として保存されているが、この旗は靖国神社とこの神社にしかないと言われている。

戸澤神社境内にある本丸御玄関跡。
新庄藩庁の正面玄関。この奥に廊下をへだてて、40畳敷の大書院、32畳敷の御広間などがあった。

本丸表御門跡
本丸正面のあったところ。表御門はこの石垣を土台とした櫓門であった。

本丸表御門跡

本丸東側土塁跡。

本丸東側土塁隅。この上に武器櫓があった。

武器櫓跡。
この一角に二層の隅櫓がそびえていた。中に槍・鉄砲などの武器をいれていた。

武器櫓跡からの本丸の眺め。中央が戸澤神社の社務所で、左隣の白色の鳥居が護国神社のもの。

戸澤神社に隣接する護国神社。戊辰戦争の戦死者を弔うために戸沢家の菩提寺である瑞雲院境内(山形県新庄市十日町太田)に1871(明治4)年に設けられた招魂場が前身で、1915(大正4)年に現在の場所に移転。1939(昭和14)年に「新荘護国神社」に改称。

新庄城本丸跡の南西隅に位置する天満神社の鳥居。

こちらは天満神社の白の鳥居。

天満神社は戸沢氏の氏神として古くから崇敬されてきました。新庄城築城の3年後の1628(寛永5)年、藩祖政盛によって建立。現在の社は1668(寛文8)年に2代藩主戸沢正誠が再建したもの。戊辰戦争の際に、落城した新庄城で唯一被害を受けずに残された建物。

「天神様の撫で牛」。
ご神体である菅原道真が丑年生まれから来ている。頭を撫でると頭がよくなり、自分の体の悪いところを撫でるとその個所が治ると言われている。

二の丸跡
本丸の南に設けられた廓。廓内に二の丸長屋があった。

本丸南側水堀には蓮が咲いていました。

きれいな蓮の花です。

本丸南側出入口

本丸南西側(1)
写真右が本丸西側掘跡。

本丸南西側(2)

本丸西側堀跡。現在は水がありませんが、もともと空堀だったのか水堀だったのかは不明。

西丁跡(1)
本丸西側に位置し、御厩、作事所などの役所や名門家臣の屋敷があった。

西丁跡(2)

本丸北西隅に位置する大納戸櫓跡。瓦葺き、二層の櫓であった。

御用水

御用水(左)。
指首野(さすの)川より分水して城内に引き入れて用水としていた。 この水では決して汚い物を洗ってはいけなかったとされていた。

本丸北側水堀

本丸北側堀。現在は水がありませんが、もともと空堀だったのか水堀だったのかは不明。

本丸裏御門跡
本丸北側にあった城門の跡。裏御門は高い石垣の上に築かれた櫓門であった。

藤嵐閣。二条城にあった流扇閣を模したものだそうです。

藤嵐閣

御物見跡
ここに城外の様子をうかがう建物があった。この土塁の上に土塀が巡らされていた。

この絵図は、郷土画家尾形芦香(1858〜1946)が自分の幼い頃の記憶と古老の証言で描いたもので、幕末期の新庄城の様子を今に伝えるもの。

時鐘堂跡(左)と二ノ掘跡(右)
ここに時間を知らせる鐘搗き堂があった。

二ノ掘跡。外曲輪のまわりにめぐらされていた掘。この外側は三の曲輪の侍町。

二の丸跡東側。現在は公園となっている。

御役所跡
ここに藩内の田畑や年貢・産物・財政などを扱う役所があった。

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