白石城(宮城県白石市)


2013年9月15日(日)撮影
 天正十九年(一五九一)豊臣秀吉は、伊達氏の支配下にあったこの地方を没収し、蒲生氏郷に与えた。蒲生氏家臣蒲生源左衛門郷成は城下町を含む城郭、白石城を築城し城主となった。
 慶長三年(一五九八)上杉領となってから上杉氏家臣甘糟備後守清長は白石城の再構築を行い居城した。
 慶長五年(一六〇〇)関ヶ原合戦の直前、伊達政宗は白石城を攻略し、この地は再び伊達領となり、伊達氏家臣である片倉小十郎が大改修を行い、以後明治維新まで二百六十余年間片倉氏の居城となった。
 白石城は標高七十六メートルの最頂部には本丸・二ノ丸・中ノ丸・西曲輪、中段には沼ノ丸・南ノ丸・巽曲輪・帯曲輪・厩曲輪を置き丘の上に館堀川を巡らし、南は空堀で丘陵を切断、館堀川を隔てた平地には三ノ丸・外曲輪を配置した平山城である。本丸は高さ九メートル余の石垣の上に土塁を囲み三階櫓そして巽櫓・坤櫓・大手門・裏三階門を構え、御成御殿・表・奥の諸建物があった。二ノ丸以下はすべて土塁で囲み、木柵をまわした崖を利用する等中世と近世城郭を併用した縄張りであった。
 元和元年(一六一五)の一国一城令以後も仙台藩は幕府から青葉城と白石城の二城が許され、明治維新には奥羽越三十一列藩同盟がこの城で結ばれ、公議府が置かれ輪王寺宮が滞城された。その後按察府の設置、兵部省兵隊屯所になるなど、日本の歴史の変転期には一役を担う重要な城であった。

歴代の城主と主な出来事

一、刈田左兵衛尉経元 寛治年中(1087〜1094)より五代百一年間居城したと伝えられている。
二、白石秀長 文治五年(1189)より十五代三百九十七年間と数えられる。白石宗実の代の天正十四安達郡塩松宮森城に移る。
三、伊達家臣屋代勘解由兵衛景頼 天正十四(1586)年より五か年。
四、蒲生家臣蒲生源左衛門郷成 天正十九(1691)年より七か年。
五、上杉家臣甘糟備後守清長 慶長三年(1598)より二か年。
六、伊達家臣石川大和守昭光 慶長五年(1600)より二か年。
七、伊達家臣片倉小十郎景綱 慶長七年(1602)より二百六十七年間。
八、南部彦太郎利恭 明治元年(1868)より明治二年(1869)七月二十一日まで。
九、三陸磐城按察府 明治二年(1869)八月十日より明治三年(1870)十月六日まで。
十、兵部省兵隊屯所 明治四年(1871)四月より十一月まで。
 明治七年(1874)白石城民間に払い下げ解体
 明治三十三年(1900)白石町益岡公園設定
(現地案内板より一部加筆)

1995年に木造で再建された三階櫓(実質的な天守)。1823(文政6)年に再建されたものを参考にして復元されました。

東口門(二ノ丸大手二ノ門)跡

現在は移築されて東信寺山門として現存しています。
門2階にある特徴的な窓は眼象窓(げんじょうまど)と呼ばれ、2階で太鼓を鳴らすときに音の通りをよくするための工夫です。

城跡内部には、白石高等学校が建っています。

白石城本丸跡外郭石垣

石垣の案内板

天守石垣

三階櫓(実質的な天守)

大手一御門
1995年に三階櫓と一緒に復元されました。

大手一御門と大手二御門間の通路。

大手二御門(1)
1995年に三階櫓と一緒に復元されました。

大手二御門(2)

天守入口

天守内部(1)
石落とし

天守内部(2)

天守からの眺め
写真下が大手一御門、写真中央の門が大手二御門。

天守からの眺め
中央には東北新幹線の橋梁が見えます。

鐘楼と鐘

三階櫓と大手二御門

白石城の鯱瓦(しゃちがわら)。

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