多賀城(宮城県多賀城市)

◆2020年3月22日(日)撮影
 多賀城は、奈良・平安時代に陸奥国の国府が置かれたところで、奈良時代には鎮守府も併せ置かれました。神亀元年(724)、大野東人によって創建され、11世紀の中頃に終焉を迎えるまで、古代東北の政治・文化・軍事の中心地としての役割を果たしました。
 規模は、約900m四方で、周囲は築地塀で囲まれ、南・東・西に門が開いていました。ほぼ中央には、儀式などを行う政庁があり、第I期から第IV期まで4時期の変遷があることがわかっています。さらに城内の城前・作貫(さっかん)・大畑・六月坂・金堀・五万崎の各地区には、実務を行う役所や工房、兵士の宿舎などが置かれていました。
(現地パンフレットより)

(現地パンフレットより)

(現地パンフレットより)

(現地パンフレットより)

(現地パンフレットより)

(現地パンフレットより)
多賀城碑(重要文化財)
 多賀城碑(たがじょうひ)は、宮城県多賀城市大字市川にある奈良時代の石碑。1998(平成10)年6月に国の重要文化財に指定されている。 当時陸奥国の国府があった多賀城の入口に立ち、724年の多賀城創建と762年の改修を伝える。書道史の上から、日本三古碑の1つとされる。
碑に記された建立年月日は、天平宝字6年(762年)12月1日で、多賀城の修築記念に建立されたと考えられる。内容は、都(平城京)、常陸国、下野国、靺鞨国、蝦夷国から多賀城までの行程を記す前段部分と、多賀城が大野東人によって神亀元年(724年)に設置され、恵美朝狩(朝獦)によって修築されたと記す後段部分に大きく分かれる。 江戸時代から保護のための覆堂の中に入れられ、場所は古代の多賀城南門の前である。復元模型が東北歴史博物館に展示されている。

 江戸時代初期の万治~寛文年間(1658~1672年)の発見とされ、土の中から掘り出されたとか、草むらに埋もれていたなどの説がある。発見当初から歌枕の一つである壺の碑(つぼのいしぶみ)であるとされ著名となった。俳人松尾芭蕉が元禄2(1689)年に訪れたことが『奥の細道』で紹介されている。

 多賀城碑が偽作ではないかという嫌疑は江戸時代末期からかけられていたが、明治時代に真偽論争が活発になった。現在では真作説が有力である。

西
多賀城
 去京一千五百里
 去蝦夷國界一百廿里
 去常陸國界四百十二里
 去下野國界二百七十四里
 去靺鞨國界三千里
此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將
軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置
也天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山
節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守
將軍藤原惠美朝臣朝獦修造也
天平寶字六年十二月一日
Wikipediaより)

築地跡
外郭南東隅
多賀城を囲む約1キロメートル四方の外郭区画施設の南東隅。ここでは材木塀が設置されていた。
(現地案内板より)
外郭南辺築地
 約1km四方ある多賀城の南を区画する築地塀の跡である。発掘調査の結果、この塀の高さ4.5m程度と推定されている。この一帯は低湿地であったため、築地を築くとき、地盤沈下防止のための基礎盛土(幅約17m、厚約1.5m)をしたり、大きな排水木樋を敷設するなど、大規模な工事をしている。また発掘調査では、当時「大垣」と呼ばれていたことが分かる墨書土器も発見されている。
 現在は、発掘調査前の状態に埋め戻して保存している。
(現地案内板より)

左側の一段高くなっている場所が築地塀の跡。

築地塀の跡。奥に見えるのが外郭南東隅
多賀城六月坂地区の役所跡
 ここは、政庁から北へ約300mの位置にあり、行政的な仕事を行っていた場所と考えられています。
 平安時代の当初には、東西に桁行七間×梁間四間廂付建物が二棟並び、その前面に数棟の掘立柱建物が建っていました。
 その後、これらの建物を取りこわし、掘立柱建物や、礎石を使用した倉庫が建てられました。
 この他、鍛冶工房と推定される堅穴住居跡が見つかっています。
 このような建物群の北には東門と西門を結ぶ道路が通っており、道路の北側にも建物群や堅穴住居がありました。
(現地案内板より)
役所群の北門と塀
 平安時代には、ここに門がありました。多賀城内で最も広い役所群の北側の出入口です。
 門を入ると、様々な仕事を行った役所の建物がありました。
 この門の両側には、丸太材を立て並べた材木塀がつくられていました。
 現在は、門の柱や壁の位置、建物の大きさ、塀の位置などを示しています。
(現地案内板より)
平安時代の石敷道路
 多賀城の中には、東門と西門を結ぶ幅約16mの道路が通っていました。
 平安時代になると、ここ東門の近くでは、道路に小石や瓦が敷きつめられていました。
(現地案内板より)
平安時代の外郭東門跡
 外郭東門は、第III期のある時期(平安時代初め頃)にこの場所に移された。
 正面9.4m、奥行き5.5mの瓦葺きの八脚門である。
 初めは掘立柱式、第IV期(9世紀後半)には同じ位置で礎石式につくり直された。
 門に取り付く築地塀は、幅2.7mで2度のつくりかえがある。
 築地塀が内側に折れ曲がる位置には櫓が建てられていた。
平安時代の東門北櫓跡
 平安時代には、多賀城を囲む築地塀や材木塀などに、櫓(背の高い建物)が計画的に作られました。
 東門の前面では、瓦葺き屋根の櫓が南北対称に建てられ、これらは3期のうつりかわり(建てかえ)がありました。
 ここでは、発掘で見つかった柱穴などはうめもどして保存し、2時期目の櫓の土壇(建物の土台)の形を表示しています。
(現地案内板より)
奈良時代の外郭東門跡
 外郭東門は国府多賀城と国府の津(塩釜港)を結ぶ最もにぎわった門であった。奈良時代にこの場所に立てられ、大きく3時期の移り変わりがあった。平安時代になると、約80m西に移された。ここでは第II期の門を推定復原し、60cmの高さまで表示した。
(現地案内板より)
外郭北東隅・外郭東門跡・大畑地区
 多賀城東辺の外郭区画施設は、奈良時代と平安時代とで位置が異なる。東側に走るのが奈良時代、西側に走るのが平安時代の築地塀である。奈良時代の外郭東門は外郭東辺北寄りに建てられるが、宝亀11(780)年の火災で焼失する。平安時代、内に入った位置に築地塀と外郭東門が新たに建てられ、櫓が設けられた。またこの頃、大畑地区の役所も一段と整備された。
(現地案内板より)

右に見えるのが平安時代の外郭東辺。

右に見えるのが奈良時代の外郭東辺。

東大垣跡
多賀城の外回りの東を画する奈良時代の塀跡である。当時は大垣と呼ばれ高さが約4mで、瓦葺きであった。現在は上部が崩壊し基部のみ遺存している。

外郭北東辺

大畑地区
外郭東門近くに位置する。ここには役所が配置され、八世紀後半には材木塀で仕切られていた。

現在は畑になっています。
掘立柱式の建物跡
 政庁第II期(8世紀中頃)に建てられた東西に廂が付く掘立柱式の建物である。
 規模は南北15間(約45m)以上、東西4間(約12m)と多賀城で最も大きい。
 ここでは南北15間までの身舎と廂の柱位置を、高さをかえて表示した。
空堀覆屋
ここでは地中に埋まっていた空堀遺構の一部を発掘し、直接見せています。
(現地案内板より)

実際の空堀は2,3m下に埋まっています。
作貫地区
 この地区は、多賀城の中心である政庁地区の東に位置する。発掘調査の結果、8~9世紀には母屋を中心にコの字型に配置された役所の建物が存在し、何度か建て替えられていたことが分かっている。
(現地案内板より)
政庁正殿跡
 政庁の中心となる建物の跡です。礎石式の四面廂付建物で、その南は石敷の広場となっていました。現在は建物の基壇のみを復元表示していますが、礎石の一部は当時の実物です。
(現地案内板より)
政庁東殿跡
 政庁東門の位置に作られた、第II期に特徴的な建物です。築地塀を飾った建物であったと考えられています。
(現地案内板より)
政庁南門跡
 ここには、政庁の南正面の門がありました。奈良時代後半の第II期は礎石式で、東西には門を飾るために翼廊が取り付けていました。現在表示している建物北側の石組溝の石は当時の実物です。
(現地案内板より)

復元された政庁から外郭南門への道路。

現在も復元工事が行われています。
舘前遺跡
 多賀城跡の南東200mの台地上から、多賀城の政庁正殿に匹敵する規模の母屋を中心に、6棟の建物が発見されました。年代は9世紀ころで、多賀城に赴任してきた国司の邸宅か、あるいは多賀城に関わる重要な施設ではないかと考えられ、昭和55年に特別史跡に追加指定されました。
(現地パンフレットより)
多賀城廃寺跡
 多賀城と同時期に創建された多賀城の付属寺院跡で、多賀城跡の南東約1.2kmの高崎地区にあります。東に塔、西に東面する金堂があり、その北には講堂が置かれ、中門から延びた築地塀が塔と金堂を取り囲み講堂に取り付くという伽藍配置は、太宰府付属の観世音寺(かんぜおんじ)と共通しています。寺の名称は伝わっていませんが、山王遺跡から「観音寺」と書かれた土器が発見されており、寺名の可能性が高いと考えられています。
 多賀城跡とともに大正11年に史跡、昭和41年に特別史跡に指定され、これを記念して多賀城町(当時)は、廃寺跡を史跡公園として整備しました。このような史跡整備は、百済寺(くだらでら)跡(大阪府枚方市)に次いで全国で2番目に早く、東日本では初めての試みでした。
(現地パンフレットより)
多賀神社
 この地は、かつて陸奥国多賀郷の中心地で陸奥国府鎮護寺の境内にあり、当時任務に赴いた国司、開拓移民が崇敬していた江州多賀神社(現滋賀県多賀大社)を遷祀したとされている。
 奈良時代の風土記に当時の神事が記載されており、平安時代には桓武天皇より西暦七九六年に従五位下の位を受けるなど、朝廷や民衆より崇敬を受けていた古社であると言える。
 しかし、朝廷が陸奥征服を果たし、軍事拠点であった多賀城の繁栄も途絶えるのに伴い、当社の所在地も不明になるほど一時衰退した。
 明治に入り村社を決める際、所在さえ定かでなかった為いろいろ議論されたが、明治五年九月に「延喜式内社」として村社格に加列される。
 昭和四十年当社境内地を含めた一円が、国の特別史跡に指定され、史跡公園の施工に伴い、多賀城廃寺跡東塔基壇上に鎮座した神殿、その他の施設を移転し現在の地に神霊を安鎮した。
 平成十三年、氏子崇敬者協力のもと、社殿を改築し現在に至る。
多賀神社總代
(現地案内板より)
伏石(ふせいし)
 弘安10年(1287)に建立された市内で2番目に古い供養塔で、西阿弥陀仏という僧を中心に、30人余りが力を合わせて碑を立てたことが刻まれています。
 名前の由来については、伏せてあったこの碑を立て起こしたところ、市川に疫病が流行し、再びに伏せたので伏石と呼んだとも。仙台藩主の鹽竈神社参詣の道筋にあたり、立っていた石を藩主に遠慮して伏せておいたからとも言われています。(市指定文化財(昭和48年12月18日指定)
(現地案内板より)
貴船(きふね)神社
 山城国愛宕郡鞍馬村(現在の京都市左京区)にある貴船神社の分霊を祀ったと伝えられており、海上安全、大漁祈願に霊験あらたかな神として知られています。
 神社には棟札が1点伝えられており、宝暦6年(1756)12月の年次と、創建当時「白山権現」という名称であったことが確認できます。なお、調査の結果、建築意匠は江戸時代中期の様式であり、棟札の年代と矛盾しないことが判明しています。
(現地案内板より)
多賀城神社
 昭和27年(1952)年に建立された市内で最も新しい神社です。南北朝時代、陸奥太守として多賀城国府に赴任した義良(のりよし)親王(のちの後村上天皇)と北畠親房・顕家父子を祀っています。社殿は、第二次世界大戦時の多賀城海軍工廠奉安殿を移築したものであり、海軍工廠の数少ない遺構として貴重です。
(現地案内板より)
多賀神社
 滋賀県にある多賀神社の分霊を勧請したと伝えられています。延命長寿の神で、年の数だけ竹の箍(たが)をおさめて祈願するのが習わしです。
 かつては、この場所の北東約50mの位置にありましたが、多賀城跡の発掘調査や環境整備事業により、現在地に遷っています。
(現地案内板より)

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