山形城(山形県山形市)

◆2015年9月20日(日)撮影
 1356(南朝:正平11、北朝:延文元)年に斯波兼頼が羽州探題として山形に入部し、1357(南朝:正平12、北朝:延文2)年には初期の山形城が築城される。以後、出羽斯波氏は最上氏を名乗り、最上氏本宗家の居城となった。最上氏11代当主の最上義光の代が最盛期で、慶長年間に城郭を拡大し三の丸を構築、家臣団の屋敷が置かれ、さらに城下町を整備した。慶長出羽合戦の戦功で出羽57万石の大大名となり、実質100万石の居城となる。しかし、義光の孫・義俊の時代に家中不取り締まりの罪により1622(元和8)年近江国1万石に転封(事実上の改易)された後、鳥居忠政が24万石で入府し、山形城の本丸と二の丸の改修がなされたので、現在の二の丸は鳥居氏時代の遺構と言っていい。鳥居氏以後、たびたび藩主の変更があり(11氏、天領2回)、改修もなされたが、山形藩を治める藩主の石高も減少したため、江戸中期以降は城の維持が困難になる。明治維新を迎えた時の藩主は天保の改革失敗による左遷という形で入城した水野氏で石高も5万石まで減少し、本丸は更地で、御殿も二の丸に置かれ、三の丸の西半分は田畑となった。現在、本丸と二の丸は霞城公園として整備され、三の丸の遺構はほとんど残されていないが、僅かに歌懸稲荷神社脇に土塁と掘跡が残されている。
(参考サイト:wikipediaなど)

二ノ丸東大手門(1)
鳥居氏時代に設置されたもので、二の丸東西南北門の中で一番大きい門。1991(平成3)年に復原された。

二ノ丸東大手門(2)

二ノ丸東大手門(3)

二ノ丸東大手門(4)

二ノ丸東大手門(5)

二ノ丸東大手門(6)

二ノ丸東大手門の手前には奥羽本線が走っています。
こちらは新庄方面。

こちらは山形市街地方面。

ちょうど山形新幹線が通りました。

最上義光騎馬銅像

「山形歩兵第三十二聯隊之跡」碑。明治時代には陸軍歩兵第32連隊が駐屯していた。

本丸一文字門高麗門(1)
本丸の大手門に相当し、手前の大手橋が2006(平成18)年に、門は2013(平成25)年に復原された。

本丸一文字門(2)

本丸の掘跡にある石垣が崩落した跡。
江戸時代後期の絵図に「御櫓崩」の記述があることから、その崩落に由来していると考えられています。
本丸の掘は明治時代に埋められましたが、現在は発掘され、復元されました。

本丸跡は訪問時には発掘作業が行われていました。

復原された坤(ひつじさる)櫓(1)。
二の丸南西隅に位置していたので、方角を示す「坤」で呼ばれた。

坤(ひつじさる)櫓(2)

坤(ひつじさる)櫓(3)

坤(ひつじさる)櫓より本丸跡を撮影。

坤(ひつじさる)櫓より二ノ丸西不明門跡を撮影。

二ノ丸西不明門跡(1)

二ノ丸西不明門跡(2)

二ノ丸西不明門跡(3)

二ノ丸西不明門跡(4)

二ノ丸北不明門跡(1)

二ノ丸北不明門跡(2)

二ノ丸北不明門跡(3)

二ノ丸北不明門跡(4)

二ノ丸南大手門跡 (1)

二ノ丸南大手門跡 (2)

二ノ丸南大手門跡 (3)

二ノ丸南大手門跡 (4)

二ノ丸南大手門跡 (5)

国の重要文化財に指定されている済生館本館(1878(明治11)年竣功)。現在の場所に移築され、山形市郷土館として利用されている。

夕日に染まる本丸一文字門高麗門。

TOP旅の記録城のページ>山形城(山形県山形市)