◆ザクセンハウゼン強制収容所(Konzentrationslager Sachsenhausen)◆

 ベルリン郊外北部にあるナチス時代の強制収容所。強制収容所・絶滅収容所は原則として人里離れた場所に設置されたので、ベルリン中心部から電車で最寄り駅であるオラニエンブルク駅まで40分ほど、その後徒歩で30分ほどと交通の便が良いこの収容所は日帰りで訪れることが出来る数少ない場所。

 この地にはナチス政権が発足した直後の1933年3月にビール工場を改築して設置されたオラニエンブルク強制収容所(Konzentrationslager Oranienburg)があったが、1935年2月にこの収容所はいったん閉鎖された。
 その後、1936年に再度強制収容所設置が命ぜられ、これがザクセンハウゼン強制収容所である。
 初期には、共産党員や社会民主党員などの政治犯やジプシーが収容されたが、水晶の夜以降にはユダヤ人も収容されるようになり、第二次世界大戦後には占領地から様々な国籍の人々が収容されるようになり、最終的には約20カ国20万人が収容されたとされる。
 ベルリンに最も近い強制収容所という立地から、各地の強制・絶滅収容所を監督する強制収容所総監本部が収容所の西側にあり、各収容所から収奪した金品が集められた。
 この収容所の特徴として、政治犯が多かったことであり、クルト・シュシュニック(併合時のオーストリア首相)、ゲオルク・エルザー(1939年にヒトラー暗殺を狙った人物)、ヤーコフ・ジュガシヴィリ(ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンの息子)などが収容された。
 1945年4月21日にソ連軍の接近に伴って収容所は閉鎖され、収容されていた囚人は徒歩で別の収容所へ歩かされたが、栄養失調や過酷な労働で衰弱していた囚人にはこの移動は過酷なもので、道中で倒れた囚人は親衛隊員やドイツ国防軍兵士によって銃殺され、後年、死の行進(Todesmärsche)と呼ばれることになる。
 戦後はソ連軍が接収し、1950年3月の閉鎖まで、同じ強制収容所として使用された。その後、1961年6月22日にザクセンハウゼン国立警告・記念施設として整備され、開館した。ドイツ再統一後の1993年1月以降、ザクセンハウゼン追悼博物館(Gedenkstätte und Museum Sachsenhausen)と名称変更された。
Wikipediaより)

最寄り駅であるSバーンのオラニエンブルク駅に到着。ベルリン中心部から40分ほどで到着。

駅には案内板が立っていました。写真は1940年撮影のもの。「囚人の到着地、オラニエンブルク駅」の案内板が建っています。
この駅までザクセンハウゼン収容所収容者が輸送されたことを示しています。さらに、この案内板によると、ポーランド侵攻間もない1939年9月13日にポーランド系ユダヤ人がベルリンより輸送された例を紹介している。
戦争勃発間もないブロンベルク(現在のポーランドのビドゴシュチ)でドイツ系住民とポーランド人住民との衝突事件があり双方に多数の死傷者が出た。その後この地を占領したドイツ軍にこの事件は知られることになり、ドイツの新聞は「ブロンベルクの血の日曜日」として大々的に報じ、報復として多数のポーランド人が殺害された。そこで、ナチスはブロンベルクでドイツ人を殺害したのはポーランド系ユダヤ人であるというデマを流す目的でこのユダヤ人が収容所に送られたのである。

オラニエンブルク駅舎。前述の案内板の写真と比較して、建物の外観は戦前とおなじもののようです。

ザクセンハウゼン強制収容所までは閑静な住宅地の中を30分ほど歩きます。

「死の行進」の碑。
戦争末期の1945年4月にソ連軍の接近にともなって収容所は閉鎖され、収容者は徒歩で後方で移動させられ、6,000人以上が殺害されたとあります。
IHR VERMACHTNIS LEBT IN UNSEREN FORT(彼らの遺志は我々が起こした行いの中に残る)

ザクセンハウゼン強制収容所に到着。中央の建物が案内所です。敷地内に入る正門まで若干歩くことになります。

ザクセンハウゼン強制収容所の全体がわかる模型。

壁に沿って写真付きの展示が続きます。これは空中写真で、赤で示された部分がザクセンハウゼン強制収容所。

先ほどの「死の行進」についての展示もあります。ここでは35,000人が死の行進をさせられたとあります。

収容所長官舎。現在は展示場所として使用されています。

ザクセンハウゼン強制収容所の組織図。

展示が膨大だったので一部を紹介。第2級戦争功労十字章。

収容所を管理した武装SS「トーテンコップ(髑髏)大隊ザクセンハウゼン」の印章。金属と木で出来ています。

ザクセンハウゼン強制収容所の正門です。

この日は雲が多めでしたがいい天気でした。

正門の鉄扉には、各地の強制収容所に必ずあるお決まりの標語「ARBEIT MACHT FREI(労働は自由をもたらす)」があります。

現在は広大な広場が広がっていますが、かつては収容者用のバラックがたくさん建てられていました。

「中立地帯 警告なしで銃弾で射撃する」との警告看板。
周囲とは高い塀と電流の通った有刺鉄線と鉄条網で隔離され、近づくと容赦なく発砲されたと言います。

復元された一般収容者用バラック。

バラック内部(トイレ)

バラック内部(洗濯場)

バラック内部

バラック内部

バラック内部(寝室)

こちらは重要人物の特別収容者用の独房。

「”囚人房”ゲシュタポおよびSS管理下特別監獄」

それぞれが個室(独房)となっています。

独房内部の一つ。ここにはイギリス軍高級将校が2名収監され、銃殺刑に処される6ヶ月間ほどここにいたと記されています。

戦後、ソ連軍によって建てられた慰霊塔。

台座にはこの収容所に収監された人の様々な国名が刻まれています。

ここは銃殺場だったようです。ここでは様々な国籍の人々が殺されたそうです。

あちこちに銅板が置かれています。
「1945年2月2日夜、SSによってここで殺害されたソ連軍将校捕虜60名を偲ぶ」と刻まれています。

「この地において、後のSS大量虐殺・絶滅行動の最初になる33名のポーランドの愛国者の処刑が1940年11月9日に行われた。」

ルクセンブルク人殺害についての記載。
フランス語はわからないのでパス。

こちらはオランダ語。

死体を焼却する炉とされる跡。ドイツ軍が撤退時に爆破されたとされる。

こちらが原形を良くとどめています。

「ザクセンハウゼン強制収容所の犠牲者へ」と刻まれた追悼碑。

E塔。収容所の場所には逃亡者用の監視塔があちこちにあります。

E塔を出るとすぐそこにはソ連が設置した博物館があります。

内部にはソ連から見たザクセンハウゼン強制収容所の展示があります。

こちらは1957~1990年までに旧東ドイツ国家人民軍の兵舎として使用された建物。

小さな白い花が咲いていました。

病院棟。ザクセンハウゼン強制収容所では人体実験が行われていたといいます。

シャワールーム

この建物で人体実験が行われたと言われています。

「シンティおよびロマの人々を偲ぶ、彼らはここで苦痛を与えられて殺害された。」

建物内部。病院らしい無機質な雰囲気ですが、実際病院とは名ばかりの行為が行われていました。

人体実験と解剖が行われた場所。ここで行われた実験はやがて、各地の絶滅・強制収容所でも行われるようになってきました。

地下は死体安置所として使われてたそうです。それにしても広いです。

広い上に不気味です。

解剖室。

解剖室。

調理室のようです。

浴室

壁と鉄条網の手前にあるドクロの看板。近づいたら警告なしで銃撃されたそうです。

正門近くには博物館兼食堂があります。

新博物館、正式には「ヨーロッパ国民のファシストに抵抗する自由を求める戦い博物館」。

この日はたくさんの訪問客がいましたが、中にはこのようにユダヤ教徒特有の服装をした人々もいました。

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