◆(仮称)営林署柳沢森林軌道線(岩手県)◆

◆2013年4月13日(土)撮影
(概要:森林鉄道・森林軌道について)
 明治時代の後半、欧米列強の脅威から国を守るために富国強兵と殖産興業に邁進していた日本では、国産木材の需要が急速に高まった。しかし、古来から行われていた筏による木材の水上輸送は、常に商品である木材の紛失と水難事故の危険を伴うもので、計画的な物流が難しかった。そこで、森林鉄道の建設を目指す機運が全国で高まった。
 日本の森林鉄道の歴史は、1909(明治42)年12月20日に開通した津軽森林鉄道に始まる。その後、長野県の木曽、高知県の魚梁瀬をはじめとして、全国各地の林産地帯に大小さまざまな森林鉄道が建設された。また、当時は日本の一部だった台湾にも、同様に阿里山森林鉄路などの森林鉄道が建設された。
 軌間は殆どが762mmでいわゆるナローゲージである。営林署が中心となって762mmを標準とし、例外的に610mmを採用していた模様であり、かなり小規模な路線でも鉱山用軌道や構内軌道に見られる508mmの軌間は採用されていなかった。運材台車や機関車の互換性の他に木材移動時の転覆の防止もあったものと考えられる。
 1960年代までの日本は国産材中心の時代であり、大量の木材が生産されていた。しかし伐採した木材を搬出する林道網が貧弱な上、トラックなどの性能が低かったこともあり、運搬手段として鉄道が一般的に利用されてきた。宮崎県では当時の国鉄の営業キロを上回る延長の森林鉄道が存在した。
 1970年代になると、外国材の輸入が本格化して採算性が悪化したこと、資源の枯渇が進み鉄道で運び出すほど量の木材が生産できなくなったこと、自動車の発達と林道網の充実したことにより、またたく間に山から消えていった。1975年に、本州最後の森林鉄道が廃線し、歴史に幕を閉じた。
wikipediaより)

(歴史)
 現在の岩手県滝沢村はかつては林業が盛んで、現在の厨川駅裏側(西側)に貯木場が置かれ、そこを起点として現在の岩手県滝沢村柳沢地区まで森林軌道線が引かれ、切り出した木材の運搬が行われていました。路線名の正式名称が不明でしたので、便宜上「柳沢森林軌道線」としておきました。廃止時期は不明ですが、昭和20年代と思われます。現在では路線跡は道路に転用されたりして目立った遺構はほとんど残っていません。
 1939(昭和14)年に現在の国土地理院が発行した地形図には「林用軌道」として描かれています。

(参考)森林鉄道と森林軌道
 森林鉄道の中には、森林軌道の名称を使用しているものがある。森林軌道も森林鉄道の一種であるが、正確に言えば、森林鉄道は大きく、1級線と2級線、作業軌道に区別されており、1級線が森林鉄道、2級線が森林軌道という。作業軌道に対し、1級線と2級線を土木軌道ともいう。
 森林鉄道と森林軌道、作業軌道の違いは規格の違いにより、森林軌道規格の森林鉄道路線も存在する。当初は両者の区分は曖昧であったが、1953(昭和28)年に林野庁によって一定の規格が定められた。林野庁通達による区分は次の通りである。
  • 1級線(森林鉄道)
    • 最小曲線半径:30m以上
    • 勾配限度:40‰
    • 軌条:10〜22kg
    • 道床厚み:100mm
  • 2級線(森林軌道)
    • 最小曲線半径:10m以上
    • 勾配限度:50‰
    • 軌条:9kg
    • 道床厚み:70mm
  • 作業軌道
    • 仮設的に施設され簡易構造の軌道。路盤が無いものが多く、伐採の進捗により仮設される場合が多い。殆どは伐採終了後に撤去されるが、整備され、1級線、2級線になるものもある。
    wikipediaより)
文献や情報が乏しく、主に国土地理院発行の旧版地形図が頼りの綱となりました。まだまだ未確認部分が多いですが、とりあえず暫定版としてアップしておきます。

昭和14年の地形図(抜粋)
※クリックすると大きいサイズの画像が別ウィンドウで開きます。
「この地図は、国土地理院発行の5万分の1地形図(盛岡)(図歴:S14、S22.2.28発行)を使用したものである。」
国土地理院発行地形図の引用について http://www.gsi.go.jp/LAW/2930-meizi.html

平成18年の地形図(抜粋)
※クリックすると大きいサイズの画像が別ウィンドウで開きます。
「この地図は、国土地理院発行の5万分の1地形図(盛岡)(図歴:H18、H20.2.1発行)を使用したものである。」
国土地理院発行地形図の引用について http://www.gsi.go.jp/LAW/2930-meizi.html
@厨川駅裏

かつてここに貯木場があったものと思われます。厨川駅は写真右方向。
A

黄色い矢印方向に路線があったと思われます。

ここからは路線跡が道路に転用されています。

厨川駅方向を撮影。路線は写真右上から左下へ伸びていたものと思われます。
B
この区間は一部一般道路化されたようです。
C
道路との分岐点

右に分かれる道路が路線跡のようです。

先へ進みます。
D

車幅も狭く、かつての森林軌道の面影を残した区間となっています。

乗用車がすれ違うのも大変な車幅です。
E
道路との交差地点

奥が厨川駅方向。やじるしのように路線が通っていたと思われます。

この区間は道路化された上に拡張されたようです。
F

ここで県道に合流します。
G

この区間は、岩手県道16号線盛岡環状線になっているため、自動車の交通量は多いです。

路線跡は左へと進みます。
H
東北自動車道との交差点

東北自動車道の高架下を通っていきます。もちろん、森林軌道が現役の頃はこの高架はありませんでした。
I

この区間は鉄道特有の緩やかな曲線になっています。
J柳沢低区浄水場付近

黄色い矢印が路線跡で、右が柳沢低区浄水場。
新旧地形図と見比べると、右の浄水場敷地内に路線跡があったかもしれないです

路線跡は左へとそれていきます。
K
路線跡として明瞭に残っている区間です。現在は農作業のための作業道になっています。

左に分かれる方が路線跡です。

路線跡らしい雰囲気があります。

この先は藪があって進むことが出来ません。

高台から見ると、線で示したところが先ほどの路線跡です。
L
この区間は道路化されていますが、道路幅が狭く森林軌道時代の雰囲気を色濃く残しています。
M柳沢上郷大川更生集落センター付近

集落センター脇には開拓の記念碑が建っていました。

この記念碑によれば、戦後間もない1948(昭和23)年に食糧不足を解消するための食糧増産を目的とした緊急事業で、国有林を解放して長野県下伊那郡上郷村や岩手県内から入植者が入ったことのことです。しかしその頃にはすでに森林軌道線は運行されていなかったとの証言もあることから、この事業との関連は不明です。
N分岐点

ここで路線は二つに分岐します。
左へそれているのが(分岐1)、右が(分岐2)。

別方向から撮影。手前が(分岐1)、左が(分岐2)です。

まずは分岐1を辿っていきます。
O(分岐1)
P地形図上の終点(分岐1)

この先を進むと、終点になります。

地形図によれば、この山あたりが終点となっていますが、この先も路線が延びていた可能性があります。

地形図での終点付近には、森林軌道関連の痕跡は何もありませんでした。
Q(分岐2)

鉄道特有の緩やかな曲線

左にそれる道路が路線跡です。
R林道入口(分岐2)

国有林へと路線が続いていました。
S地形図上の終点(分岐2)

この林道自体が路線跡か、それとも並行してあったかどうかは不明です。

この高圧鉄塔付近が地形図上の終点です。

終点付近にあやしい道がありました。
もしかしたら路線跡の可能性があります。

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