◆いわき市(福島県)◆

◆2019年1月26日(土)撮影◆
勿来切通(なこそのきりどおし)
福島県いわき市勿来町九面

 勿来切通は、1600年代に、国境(くにざかい)の小さな山々にさえぎられていた人や馬の通行を改善しようと、山頂部分を切り通したと伝えられる切通(きりどおし)である。
 文化3年(1806)に記された説には、承応年中(1652〜54)に常州関本下野村(現・茨城県北茨城市関南町関本下)の篠原和泉(しのはらいずみ)が、奥州(福島県いわき市側)の商人と申し合わせ、切通工事の責任者として、切り抜いたとされ、彼の名をとって和泉坂ともよばれたという。勿来切通の規模について、平藩の儒者・葛山為篤(かつらやまためあつ)は幅員9尺(約2.7m)、長さ72歩(約131m)、高さ5丈1尺(16m)と『磐城風土記』に記している。
 なお、幕末から明治の説には、慶長年中(1596〜1615)に新町(下野村の内)の篠原和泉が貫通させ、それを承応元年(1652)の頃に新町の庄屋酒井平左衛門(あるいは半左衛門)が「官」に申請して切通したとも伝えられている。
 勿来関は、名古曽、奈古曽、勿越、莫来とも書かれ、平安時代以来の歌枕の地となっており、切通がつくられてからも、江戸時代の文人で言えば、西山宗因、徳川光圀、伊能忠敬、立原杏所、吉田松陰がこの地を訪れている。
 元禄10年(1697)に切通の上空を望んだ安藤朴翁(あんどうぼくおう)は、青空が細長く見えたと書きとどめている。参勤交代で、平藩が勿来切通を通行していることから、東北地方の、近世初頭の土木技術史、交通史を考える上での稀少な遺構のひとつと言えよう。
(現地案内板より) 

現地案内板

右側には旅館の廃墟があり、左側に数台の乗用車を止めることの出来る場所がありましたので、ここに駐車して、この先は徒歩で移動しました。

舗装した細道が続きます。

この先で舗装は途切れ、その先には看板が立っています。

この先が切通です。

切通が見えてきました。

ここが勿来切通。中央を開削しているのがわかります。

この先は茨城県側となります。右に見えるのが常磐線の路線。

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