◆盛岡市(岩手県)◆
原敬墓所(大慈寺)


(2010年11月6日撮影)
原敬は、1856(安政3)年、盛岡市本宮の南部藩家老職を勤めた士族の家の次男として生まれた。後に「平民宰相」として親しまれるが、原家は祖父が家老職を勤めるほどの上級武士の家系であった。また、当時の徴兵制では戸主は兵役を免れるという例外規定があったため、兵役を逃れるために分家して戸主になることが多く、敬も分家し、次男であったため平民籍に編入された。
藩校作人館(仁王小学校の前身)で学び上京、新聞記者や外務官僚などを経て1918(大正7)年に第19代内閣総理大臣となり、華族出身ではない「平民宰相」と親しまれ、彼のもとで日本における最初の政党出身者で構成された政党内閣として知られる。彼の政策は、財閥や政商優遇や普通選挙法に反対した事や、政治の動きが小刻み過ぎた事や度重なる疑獄事件などに見られる政治腐敗を招き、次第に民衆の失望感を買うようになる。そして1921(大正10)年11月4日、東京駅構内で暴漢に襲われて暗殺された。その遺体は、盛岡に送られ11月11日に大慈寺に埋葬された。

暗殺のあとに公開された彼の遺書によると、冒頭には「死去の際、位階勲などの将叙は、予の絶対に好まざる所なれば、死去せば即刻発表すべし」「墓標には位階級等を記さず単に〔原敬之墓〕と銘記する事」だったそうで、遺言通りに建墓されている。ちなみに文字は、後に最後の元老として知られる西園寺公望の筆によるものです。
19才から暗殺される65才まで書き続けた日記「原敬日記」は83冊にも上り、貴重な文献資料となっている。

(メモ)原家について
原敬の先祖は、近江の戦国大名であった浅井長政の曾祖父の弟を始祖とする家系で、原家初代原政澄は、1633(寛永10)三代将軍家光の頃、南部家28代当主で盛岡藩主である南部重直に100石で召し抱えられたのが始まり。しかし三代原政親が、藩主廃立問題に連座して、1703(元禄16)年に家禄を没収の上追放された。
この頃、菩提寺光台寺を頼ったがに断られ、その紹介で大慈寺の世話を受けた。後の原敬は生涯この恩を忘れず、大慈寺が1884(明治17)年の大火に見舞われて全焼した際には山門、本堂を寄進して再建を援助した。

ちなみに6年後の将軍綱吉の死による大赦令のおかげで30石で再び召し抱えられ復帰する事ができた。後に原家は原敬の祖父である7代原直記は225石を領し、盛岡藩家老になるまでになった。

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