◆仙岩峠(岩手県、秋田県)◆

◆2010年6月7日(月)撮影

 秋田県の仙北郡と岩手県の岩手郡を結ぶため仙岩峠という。命名者は明治維新の元勲大久保利通で、1875(明治8)年に岩手県から秋田県への巡視の途上でこの地を訪れ、そのときに命名したという。それ以前は国見峠(標高950m)と呼ばれていた。
 この峠の歴史は古く、戦国時代よりもはるか前から峠越えの道があり、伝説では780(宝亀12)年に坂上田村麻呂が国見峠を開いたとされ、平安時代の前九年の役(1051〜1062年)に源義家が大軍を率いてこの峠を通ったとの伝説が残っている。真偽の程は不明ですが、それだけ歴史が古いと言うことを伺わせる。

 文献で頻繁に現れるようになるのは江戸時代から。当時、南部藩城下町の盛岡が整備が進むにつれ秋田など日本海沿岸との交易が盛んになったことで秋田街道として整備され、南部藩と久保田藩との交通路として栄えた。この時代の道はあちこちで見ることが出来る。

 明治時代に入り、1975(明治8)年には岩手県と秋田県が合同で整備を開始した、これが初代仙岩峠である。この時の道は馬車がようやく通れる程度のもので、秋田県側の整備は明治末まで遅れたという。現在では大半が放棄されたために、時の風化によってその跡を見ることが難しくなってきている。

 戦後の自動車交通時代の到来により、自動車通行ができる道路に必要性が高まり、1953(昭和28)年には2級国道105号線の指定を受け、1957(昭和32)年には工事が始まった。1963(昭和38)年に二車線の自動車通行道路、1級国道46号(前年に105号線より昇格)(別名:南八幡平パークライン)が開通した。最高標高地点は高層湿原ヒヤ潟(標高835m)である。

 ちなみに、ヒヤ潟の地名の由来は、この潟に住む竜と機織の少女の悲しい物語が伝えられており機織に使う糸通しの「梭(ヒ)」を嫌がるから「梭いや潟→ヒヤ潟」と呼ばれている。

 しかし、秋田県側は急カーブの続く厳しい峠越えの道であり、最大積雪量5mともなる豪雪地帯であり、冬季は通行止めとなる不完全なものであった。このため開通間もない1970(昭和45)年には新道の建設工事が開始され、1976(昭和51)年に国道46号のバイパスである仙岩道路が開通し、自動車通行は本峠を迂回し仙岩トンネル経由となった。

 なお、開通後わずか10年余りで放棄されてしまった旧道は閉鎖され、近年になって大規模な崩落(幅員の大部分を消失する路盤欠損)があり現在は廃道となっているが、岩手側の旧道分岐点〜国見温泉入口までは、国見温泉に通じる岩手県道266号国見温泉線として整備されている。また、国見温泉付近分岐点〜ヒヤ潟までは東北電力鉄塔保守用道路として利用されているため、最低限の補修はされているが、国見温泉付近分岐点には鉄門が設置され、自動車は通行禁止となっている。しかし、登山道路として重宝されている。

 藩政期〜明治9年までの道:秋田街道
 明治〜昭和38年までの道:県道生保内・雫石線〜二級国道105号盛岡・秋田線
 昭和38年〜昭和52年までの道:一級国道46号(通称旧国道)
 昭和52年以降の道:一般国道46号(現国道)
秋田街道入口
岩手県側の道の駅「みちのくあねっこ」付近にある秋田街道入口で、江戸時代から昭和38年まではこの道路が利用されていた。現在は、一部が林道として利用されていて未舗装ながら自動車が通れるように整備されている。
旧道入口

昭和52年以降の道路「新道」と昭和38年〜昭和52年の「旧道」との分岐点。ドライブイン跡が目印。

昭和38年〜昭和52年の「旧道」。ゲート前で右折すると国見温泉、直進すると仙岩峠。現在は、一部道路が崩落していて危険なためゲートが設置されて自動車は通れないようになっている。しかし、徒歩での通行には問題はない。
ゲートから仙岩峠まで

ゲートを通過して最初の橋。欄干が錆びてあちこち崩れている。

崖が崩れていて、片側1車線がふさがれている。よくみるとこの崖の斜面はかつてはコンクリートで固められていたことがわかる。

秋田駒ヶ岳と岩手山。
仙岩峠

高層湿原ヒヤ潟。ここで標高835m。

仙岩峠貫通記念碑。題字は開通当時の建設大臣河野一郎氏の筆による。

ヒヤ潟反対側の電気鉄塔保守用道路(昔の秋田街道)を少し登ると、駒ヶ岳の全体が見える。
カルデラを見ることが出来、この山が火山であることがわかる。左の円錐状の山は女岳(標高1,513m)。

さらに電気鉄塔保守用道路(昔の秋田街道)を登ると通称和賀山塊の山々を見ることが出来る。
(クリックすると説明文無しの写真が別ウィンドウで開きます。)

羽後朝日岳のアップ写真。


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