◆松島町(宮城県宮城郡)◆

松島町(まつしままち)は、宮城県の中部に位置し、日本三景の一つ松島の観光拠点として知られる町である。
宮城県中部に位置し、奥羽山脈から太平洋にまで至る舌状台地の松島丘陵が海に没する松島湾に面してある。松島丘陵、および、松島湾の多島海がつくりだす風景は風光明媚として古くから知られており、古代から歌枕として、現在は観光地として旅行者を引き寄せている。総人口15,035人(推計人口、2011年1月1日)。
Wikipediaより)

2010年12月24日(金)撮影
瑞巌寺
瑞巌寺(ずいがんじ)は、宮城県宮城郡松島町の日本三景・松島にある臨済宗妙心寺派の寺院である。詳名は松島青龍山瑞巌円福禅寺(しょうとうせいりゅうざん ずいがんえんぷくぜんじ)。平安時代の創建で、宗派と寺号は天台宗延福寺、臨済宗建長寺派円福寺、現在の臨済宗妙心寺派瑞巌寺と変遷した。古くは松島寺とも通称された。

この寺の前身である延福寺は、828(天長5)年に淳和天皇の勅願寺として慈覚大師円仁が開山した天台宗の寺であるとされる。
その後、鎌倉時代に執権・北条時頼が宋からの帰国僧、法身性西(ほっしんしょうさい)を住持として円福寺とあらため、鎌倉建長寺派の禅宗寺院となった。

今に伝わる桃山様式の本堂などの国宝建築は江戸時代に入ってからのもので、伊達政宗が禅僧虎哉宗乙の勧めで円福寺復興を思い立ち、1604(慶長9)年から1609(慶長14)年までの工事で完成させたものであり、名称もこの頃に今に続く「瑞巌円福寺」と改められた。

江戸時代は仙台藩伊達家の手厚い庇護のもとで発展するが、明治時代に入ると伊達家の庇護を失った上、廃仏毀釈により一時衰退した。しかし1876(明治9)年、明治天皇の行在所となり、内帑金千円が下賜されて復興の契機となった。戦後の1953(昭和28)年に本堂が国宝に指定されたほか、建築物等多くの文化財を有する。1968(昭和43)年に大書院が完成し、1974(昭和48)年には宝物館を開設した。宝物館には発掘調査などで出土した円福寺時代の遺物など約3万点が収められている。

公式サイト
http://www.zuiganji.or.jp/

本堂に向かう参道に脇にある石碑

石碑の奥にある洞窟は崖際には、修行僧が生活した場所。

本堂に向かう参道に脇にある石灯籠

本堂(国宝指定)は平成の大改修で見ることが出来ませんでした。

庫裡(くり)。庫裏とも書く。禅宗寺院の台所で、本堂と共に国宝に指定されています。

陽徳院に向かう途中にあったトンネル。岩をくりぬいています。

ノミを使って手作業で削った後が見て取ることができます。
御霊屋(伊達政宗の正室で陽徳院(愛姫)が祀られている)が特別公開されていましたが、撮影禁止だったので写真はありません。
五大堂
 807(大同2)年、坂上田村麻呂が東征のおり、毘沙門堂を建立したのが最初とされる。後に、慈覚大師が延福寺(瑞巌寺の前身)を開いた際、大聖不動明王を中央に東方降三世明王、西方大威徳明王、 南方軍荼利明王、北方金剛夜叉明王の五大明王像を安置したことにより、五大堂と呼ばれるようになった。

 現在の建物は、1604(慶長9)年に伊達政宗が瑞巌寺の再興に先立って再建したもので、桃山式建築手法の粋をつくして完工したもの。現在は臨済宗妙心寺派の寺院・瑞巌寺の所属で、国の重要文化財に指定されている。
福浦島と福浦橋
福浦島は松島の五大堂からすぐ近くにある、松島海岸の東に浮かぶ小島。福浦橋は1933(昭和8)年全長252mの朱塗の有料歩行者専用橋で陸と結ばれている。
ちなみに福浦橋は別名「出会い橋」とも呼ばれています。松島海岸には赤い橋が3つあり、この福浦橋の他に五大堂の透橋(縁結び橋)、雄島の渡月橋(縁切り橋)がある。
西行戻しの松
歌人である西行法師(1118〜1190)が諸国行脚の折り、松の大木の下で出会った童子と禅問答をして敗れ、松島行きをあきらめたという由来の地。この一帯は展望台を持つ公園として整備され、260本の桜が植えられている。ここからの松島湾の眺めは有名であり、春には桜と松島湾の風景を同時に見られる。
おまけ

松島と言えば牡蠣、というわけで昼食に頂きました。鉄板での蒸し焼きです。この写真は、蓋をして蒸しているところ。



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