◆上田市(長野県)◆
(2010年6月26日(土)、2011年7月16日(土)撮影)

上田市(うえだし)は、長野県東部(東信地方)や上小地域(じょうしょうちいき)の中心都市。県内3位、東信地方1位の人口を有している。

千曲川右岸の旧市街は、戦国時代に真田氏が築いた上田城を中心とする城下町。千曲川左岸の塩田は鎌倉時代の執権北条氏の一族塩田北条氏の所領で、北向観音などの多くの重要文化財が残されており「信州の鎌倉」の異称で呼ばれる。

都市圏は佐久地域にまでおよび、都市圏人口は定義次第では37万人になる。上田市街地から北に向かうと真田氏発祥の地とされる真田郷(旧真田町)に達する。

人口は159,005人(推計人口、2010年5月1日現在)
Wikipediaより)


上田駅

上田電鉄別所線


(上田城について)
上田城は、甲斐武田氏の旧臣である真田昌幸により、1583(天正11)年に築城された平城である。真田昌幸が二度(1585年と1600(慶長5)年)にわたる徳川軍の攻撃を撃退した上田合戦が行われたことで有名で、実戦経験を持つ全国で数少ない城の一つである。関ヶ原の戦い後の1601(慶長6)年、上田城は徳川の手で破壊されてしまう。徳川側についた嫡男信之が上田領を引き継ぎ、三の丸跡地に居館(陣屋)を構える。1622(元和8)年、真田氏が信濃国松代へ転封された後は仙石氏が入城し、破却された上田城を現在のような姿に再建した。仙石忠政により、再建された本丸の3棟の櫓(南櫓、北櫓、西櫓)など建物の外壁は煤と柿渋で防水した板を用いた下見板張の黒い外観である。明治以降は、破却や城外への移築が行われて城内には石垣と櫓が1棟残るのみであったが、昭和期に、移築されていた本丸の櫓2棟が元の位置に復元され、平成期には櫓門や塀などが木造復元されている。

●歴代城主
真田氏(1582〜1622)
仙石氏(1622〜1706)
松平氏(1706〜1872)



東櫓。正真正銘の現存櫓。

東虎口櫓門左手の南櫓。隣の北櫓とともに明治時代に民間に払い下げられ、一時期は遊郭になっていた。1943(昭和18)年から同24年にかけて、現在の地へ再移築された。

東虎口櫓門(大手門)。1994(平成6)年に再建。

南櫓(左)、東虎口櫓門(中央)、北櫓(右)

東虎口櫓門より堀を望む

大手門の巨石「真田石」。信之が松代城転封にあたり、父の形見として持っていこうとしたところ、1万人以上の男を動員してもびくともしなかったという言い伝えがあります。


石落とし場。ここから石を落として、敵を撃退します。

城跡内にある真田神社

西櫓から上田市内を眺める

真田井戸。城内唯一の大井戸でもあった。この井戸からは抜け穴があって、白の北方、太郎山麓や藩主居館跡にも通じていたとの伝説もある。

(砥石(といし)城・米山(こめやま)城について) 砥石城とも戸石城とも呼ばれるが、どちらも正しい呼び名とされる。築城年代は不明だが、隣接する真田郷に興った真田氏の外城として築城されたのが最初とされている(当時の状況は不明)。武田信玄の父である信虎は、諏訪頼重、村上義清らとともに真田氏の本家筋である佐久の海野棟綱を攻め、1541(天文10)年に海野氏は上州に落ち延びる。海野氏の一族であった真田氏も追われて、武田氏に身を寄せることとなった。砥石城は村上義清の領有となり、小県郡・佐久郡方面の重要拠点として大改築した(砥石城は、元々南側の出城の名前であったものが、いつしか城全体の呼称になったとも言われている)。

武田晴信(信玄)の時代、佐久郡から北信濃への進出を狙うようになり、村上義清との間で激しい攻防が繰り広げられた。特に1549(天文19)年の武田軍の一方的とも言える敗退は「戸石崩れ(砥石崩れ)」と呼ばれる。この時の状況については「妙法寺記」に、「この年の9月1日に信州砥石の要害を御除け候とて、横田備中守をはじめとして、随分衆千人計り討死なられ候。されども御大将は、よく引きたまわり候」と記されている。この敗戦により力攻めを諦めた武田氏は、家臣真田幸隆に攻略を命じ、『高白斎記』によれば調略によって城内に内通者を出し、1551(天文20)年5月にわずか1日でほぼ無血で陥落させる。

同城は真田氏に与えられて真田氏の居城(一説には真田氏本城)となる。ちなみに、村上氏は本拠地である埴科郡が武田勢の直接的な脅威にさらされることになり、以後は退勢を挽回できずに配下の諸豪族の離反を招き、1553(天文22)年に越後の上杉謙信を頼って落ち延びる。このことによって、武田信玄と上杉謙信とが直接領土を接することとなり、その後5回にわたる川中島合戦の大きな原因となる。村上氏滅亡後は、主戦場が北部の川中島方面に移り、また1583(天正13)年に新たに上田城を築城して居城が移ったため、歴史に登場するのは1583(天正13)年の真田氏と徳川氏の戦いである第一次上田合戦において、支城として利用された時ぐらいとなる。

1622(元和8)年、真田信之が松代城に転封の際に砥石城は廃城となった。

ここ砥石城は、映画「サマーウォーズ」の舞台になった場所で、陣内家がここにある設定です。

登山道入口付近。

最初の目的地である米山城。砥石城の出城的な城。

米山城と砥石城との分岐。まずは米山城から。

米山城山頂。

村上義清碑。

砥石城へ向かう登山道。米山城への登山道同様、急な道が続き、今回(2010年)はここで断念。

麓にある「伊勢山」バス停。映画「サマーウォーズ」にも出てきます。
以下、2011年7月16日(土)撮影

砥石城

切岸。
切り立った険しい崖を切岸というが、戦国時代の城郭では敵の侵入を防ぐために人工の切岸も作られた。この切岸も、人手が加えられたと見られる急崖で、下の堀切とセットになっており、伊勢山方面からの道を押さえている。元来は、はしごを掛けて登降していたものとみられる。(現地案内板より)

大手口。
砥石城へは、周囲の畑山・伊勢山・金剛寺の三方向から登れるが、この伊勢山からの道が大手(正面)口と考えられている。登路途中右手の山腹には湧水があり、砥石城の「水の手」と伝えられ、また段郭(削平地)も数多く配置されている。(現地案内板より)

本城跡。
砥石・本城・桝形と連なる三要害(砦)からなる砥石城の中心である。南から北へと段上りの数段の削平した郭からなっており、最上部が本郭である。山上としてはかなり広い郭群であり、館もあったのでは、と推定されている。なお、一般に「本城」とは、江戸時代の本丸に当たる。(現地案内板より)

本城跡わきにある空堀跡。

矢竹。
矢竹は節が低く節間もまっすぐなところから矢(矢柄)に用いられ、自然に生えるだけではなく栽培もされる。この辺一帯に茂っている矢竹も、砥石城内に植えられていたものの名残ではないか、とみられている。ここに限らず、中世の城跡や館跡に矢竹が生えている例は多い。(現地案内板より)

桝形城跡。
砥石城の北側の要害(砦)。入口が折れ曲がっており、桝形状になっているところから、この名がおこったものとみられる。なお、ここが砥石城の最高地点であることから、ここが「本城」とされていた時期もあった。真田氏の本拠、真田町の本原・長方面が一望に見渡せる。

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